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 無料公開ガイドレクチャー(日本語版)

 

Pathwork Guide Lecture No.32 1996年版 1958年6月20日

 

決断をする

DECISION-MAKING 

 

 

 皆さん、主の御名によりご挨拶申し上げます。皆さん全員に祝福を。

 

「神を愛する者には、全てのことは良きこととなるように働く。」この聖書の一節を吟味して、より深い意味を見つけましょう。「神を愛する者」という言葉が意味するところは、単に神を信じているということだけに留まりません。神への愛を宣言し、祈りを唱えるだけでもありません。ご存知のように、神への真の愛とは、霊的にワークし、成長し、個人的に関係する心理的側面全てにおいて神の法則を知ることを意味します。自分の行い、言葉、考えが霊的法則に従うだけでなく、感情も従うように、自分自身を徹底的に知る必要があります。感情において神を愛するようにならねばなりません。もちろん、それを達成するには長いプロセスが必要です。

 

 霊的成長の道を歩む者だけが、神を本当に愛することができます。では、「全てのことは良きこととなるように働く」の部分はどう説明できるでしょうか。友よ、これは確かに真実です!成長と浄化の道を歩む者にとっては何が起ころうとも、それは良きことの為でなければなりません!この言葉の意味するところは、ある一定の成長段階に達して初めて実感するに至ります。この道を歩み、神への愛を証明していく者には、明らかな悲劇、災難、不幸であっても、良い結果がもたらされないことはありません。しかし、皆さんの多くはこれを知りません。皆さんは依然として、この世界が偶然と運の世界、あるいは不公正でさえあるという幻想の下に生きています。もっとも、それが本当だとは「考えて」いないかもしれませんが、多くの人はそう「感じて」いるのです。そして、それがあなた方の大きな誤りであり、悲劇的な幻想です。一方、この道を歩んでいない者、言い換えると、何をおいても一番に神を愛していない者は、自らの身に起こる最善が良きことの為ではないことにやがて気づくことになります。最善であった筈のことが、後に困難や試練を創り出すかもしれません。それは、この道を歩み始めた瞬間、将来の転生において初めて良き方向に働き始めるのかもしれません。その人の成長において、その時点までは、究極的には良きことなど何もありません。しかし、魂の進化における決定的な時期であるその時点からは、起こること、起こったこと、起こるであろうこと全ては、良き方向に向かう筈なのです。そして、この自己浄化の道を私と共に学び、レクチャーを聞いている友人の皆さんにとって、これまでの人生、過去から現在までの全ての悲劇、困難、悩みについて考えることは、素晴らしい訓練と瞑想になるかもしれません。もし、そこに何らかの良きことを見出すことができたなら、更なる高みへと一歩前進したことになります。

 

 これらが皆さんにとって単なる言葉に留まるならば、それは十分とは言えません。このことの真実を深く理解する所まで至らねばなりません。理解不足で、特定の状況や出来事の中に未だ良い点を見つけられないならば、それは自己認識の重要な部分が未だ欠けていることを示しているに違いありません。何故なら、自己認識があれば、それぞれの不運がどのようにして特定の欠点を引き起こすことを見つけ出し、神聖なる法に逆流する感情の流れの無知を直ちに明らかにすることができる筈なのです。内面の弱点全てを知ったならば、このような一見不利な出来事がなければこれらの弱点が意識に上がることはなかったと理解するでしょう。皆さんはそれを本当に理解することはできないでしょう。これは変容の基本的な要件です。関連付けることができない場合は私の所へ来て、より具体的に質問をしてもらっても構いません。あなた自身の魂の内に、繋がりが見出せるよう導きましょう。友人の皆さん、一旦この道を歩み出したら、例え間違った行動や誤った判断でさえ皆さんの為になることを覚えておいてください。それは、外部からもたらされる無意味な出来事以上のものになります。

 

 同胞を愛することが宇宙の最も重要な法則のひとつだということは、皆さんご存知ですね。愛を得る方法、愛を阻むもの、愛したいように愛せないこととどう向き合うかなど、愛については長い時間をかけて話し合ってきました。しかし、ここでは、既にある程度愛することができている何人かの友人に向けてお話ししようと思います。それは程度の問題に過ぎません。完全に浄化されない限り、あなたの愛は神聖で完璧なものにはなり得ません。浄化がなされていない程度に、あなたの愛はぼやけたものになるでしょう。

 

 神の愛からの逸脱は、個人の性格の複雑さに応じて様々な形で起こる可能性があります。ひとつの方法は、愛する人をあまりにも高く位置づけることです。言い換えると、愛する人が未だ持っていない完璧さを彼あるいは彼女に与えてしまうことです。それが本当にあなたの愛の証であると感じているかもしれませんが、それは大きな間違いです。それは真実ではありません。過大評価されることは、愛される側にとって負担に違いないのです。時に意識的に、しかし多くは無意識のうちに、愛する対象はそれを感知し、従って理想化された自己像に従って生きる衝動を感じます。人間は皆、愛に飢えています。そして殆どの人は、間違った方法で愛を求めています。つまり、まず愛を受け取り、その後、リスクがなければ愛を与えるのです。この愛への切望は、対象者に理想化された自己像を維持する苦闘を容赦なく課します。期待に添えないならば、愛が危険にさらされるかもしれないと恐れるのです。同時に、対象者は愛を与える者を恨みます。深い部分で、その種の愛は誤っていると感じるからです。浄化されていない魂には、偽りの前提で与えられた愛を失うリスクを冒す強さがありません。その為、自ら仮面をつくり上げざるを得ないと感じますが、勿論その奥では、真に心地良く、安らかに、自分自身や本物の人間として愛されていると感じることは決してありません。

 

 友よ、自身の内側を探ってみてください。無言のうちに、あるいは考えなしに大切な人に過剰な完璧さを要求していませんか?それを確認できたなら、それは良い愛でも健全な愛でもなく、皆さんにとって、そして愛する相手にとっても益することのないことが分かるでしょう。他者の有害なマスクを壊すのを手伝うことは、ある程度あなたの力でできます。これは、自分自身の仮面を壊し、勇気を持って本当の自分に向き合うだけでなく、相手を単なる理想化された自己像ではなく、ありのままに見て愛そうとすることでもできるのです

 

 また、現実よりも完璧な愛の対象をなぜ必要とするのか、深く隠されたその理由を認識してください。おそらく、自らの内にある程度のプライドがあり、それを与える愛の種類で隠しているのでしょう。更に、寛容と思いやりが欠落しているに違いなく、人をありのままに受け入れることができないのです。皆さんは、相手の不完全さに目をつぶることなく、そのままを受け入れて愛することができる筈です。このようにすれば、愛する人はあなたの期待から解放され、いかなる形でも強要されたり、負担を感じたりすることはありません。自分が愛する時、どのように愛しているか考えることを忘れずにいてください。誤った方法で愛していないか良く考えるのです。

 

 ここからは、別のテーマについてお話したいと思います。誰の人生においても、決断に関するテーマは非常に重要です。何故なら、全てが決断ですから。これは行動や分かりやすい物理的な選択だけでなく、決断に伴うあらゆる感情的な態度にも当てはまります。大多数の人間は、明確で成熟した決断を下すことができません。その為、魂は病にかかり苦しんでいるのです。魂の内に大きな無秩序が生じ、それは当然、混乱や葛藤へと繋がります。この観点から人生を、とりわけ葛藤を見始めることは、この道を歩む皆さんには大変有益なことかもしれません。これまで、真の決断をして来ましたか?それとも時に、その決断に関係する事柄を検討したり向き合ったりせず、表面的な決断をして、物事が当然のように思い通りにいかないことで挫折感を味わいませんか?自分自身、周囲、人生全般に対して反発がありますか?

 

この物質界に生きている限り、全ての決断にはふたつ、時にはそれ以上の選択肢があります。場合によっては、誤った選択肢が複数あり、正しい選択肢がひとつしかない場合もあります。成熟した責任ある探究だけが、最終的に正しい方法が何かを示します。しかし、誠心誠意、意識的に責任を持ち、いかなる課題や起こり得る結果を避けることなく決断されれば、多くの場合、実際に何を決断したかは問題ではありません。例え、ある選択肢の方が他のものよりあなたにとって良いものであったとしても、誤った方法を正しい姿勢で選択すれば、それは魂にとっては遥かに健全です。最初は、このことは奇妙に感じられるかもしれません。

 

 では決断をする際、正しく成熟した態度とはどのようなものでしょうか?その答えは、単に自分が何を望んでいるか、その代償が何かを知ることです。つまり、どの選択肢にも代償や不利益はつきものなので、この地球上では欲しいものを完全に手に入れることはできないと認識することです。また、起こり得る不利益がいよいよ現実となる前であっても、その代償を喜んで支払うことです。一方で、正しい選択肢を偶然選んだとしましょう。偶然とは、大部分の人々がするように、未熟に目を半分閉じたまま、選択肢に内在する不利益を受け入れずに選択したことを意味します。これでは、無駄に難しい選択肢を選ぶより遥かに魂に損害を与えます。正しい姿勢で決断することで、責任を持って、支払うべき代償を受け入れるのです。ですから、子供のように気乗りしないで決断したり、あわよくば代償を回避できるなどと考えて、目を閉じたまま踏み込んだりしないよう気をつけてください。物質界で生きている限り、それぞれの選択肢には利益と不利益があるのです。

 

 高次の霊的領域や境地では、否定的な側面はもはや存在しません。一方、より低次の闇の領域では、どのような選択肢もいわゆる利点を伴いません。物質界の肉体にいる間でさえ不利益が降りかかることのない、より高次の領域にまで自らを昇華させるまで、この利点と不利益は存在し続けます。こうした段階に到達する為には、現時点では正当にあなたのものである、このより低次の領域を支配する法則を通り抜けなければなりません。人生にそうするよう強要されるからではなく、その法則を完全に受け入れなくてはなりません。そのようにして、そのようにしてのみ、その地点に到達するでしょう。あなた自身の世界の法則を避けようとしても、どんな霊的なアクロバットを試してもうまくいきません。同様に、闇の世界に縛られた人間は、未だこの地球の次元にいたとしても、闇の世界を支配する条件を受け入れなければなりません。

 

 友よ、これは今夜のレクチャーの冒頭の言葉と関連があります。神を愛するということは、他の多くのことの内でも、当然のことながら多様な神の法則に従い、更に、進んでそれらを受け入れることでもあります。この法則のひとつとして、各決断の不利な側面にも向き合い、受け容れねばならないということでもあります。従って、成熟した決断をするということは、各選択肢を徹底的に吟味するということです。全ての有利な側面だけでなく、不利な側面にも同様に向き合うことを意味します。そうすれば、何を選ぶにしても、支払うべき代償があることを理解した上で、どの代償を払いたいか自分に問いかけることができます。更に熟考して、利益が見込めるなら、もっと高いリスクを負う方が良いのか考えることもできます。こうして、あなたはこの地上生活のもうひとつのルールである不確実性も受け入れることになります。これにはリスク、すなわち人生の短所も含まれますが、リスクを回避できる計画などは存在しないのです。友人の皆さん、これは又、感情面の健康にも大切です。このようにして、成熟した存在として行動し、魂はそこから恩恵を受けるに違いありません。

 

 このように決断をする人がそれで悲嘆に暮れることはありません。また、このように決断しなかったことによる葛藤に直面することもありません。葛藤は、誤った決断や不利になる決断の可能性があるから生じるのではなく、代償を支払う覚悟や意志を持たず盲目的に決断しようとするから生じるのです。これは、皆さん一人一人に当てはまります。成熟した態度で感情的な決断をする人を私はまだ見ていません。

 

 皆さんの道でワークできるよう、強力な材料をまた提供しています。何らかの形で葛藤が存在する場合、適切な決断が下されていないということです。表面的なレベルに留まらないでください。答えを見つける為には、感情を更に掘り下げる必要があります。誠実に探せば、遅かれ早かれ完全に決断をし切っていないことに気づく筈です。何とかして不利益を受け入れずに、利益だけ得ようと望んでいるのです。また多くの場合、明確に考えることなく、両方の選択肢の利益を同時に得て、両方の不利益からも逃れることさえ望んでいます。これでは人生を欺くことになり、必然的な結果として人生から教訓を与えられ、避けたかった両方ないしは全ての側面での不利益を受け取ることになります。大部分が無自覚のこの感情的な流れを見てみると、何に相当するでしょう?それは貪欲です。

 

 この地球の領域では、殆どの人が貪欲です。それは必ずしも物質的な意味ではなく、感情的にも貪欲です。貪欲とは、代償を払うという責任を負わずに利益を蓄積したがることです。言うまでもなく、これは霊的法則に反しています。

 

 友人の皆さん、私が今夜お話したことについて考えてみてください。長いレクチャーではありませんでしたが、ここでお伝えしたことを正しく理解し、個人的な道でワークするならば、皆さんの進歩に必要な材料を与えてくれるでしょう。今夜は、まだ時間がありますので、皆さんの質問にお答えしましょう。

 

 質問:人生における過度の野心と、野心の欠如という相反する感情についてはどうでしょうか?例えば顕著な才能がない場合や、先天的な障害、あるいは怠惰は別として、その感情はどこから来るのですか。

 

 回答:ご存じでしょうが、先天的な障害は単なる結果に過ぎません。ではまず、野心の欠如についてお話ししましょう。お約束通り、欠点を分析し、元の良い特質へと戻るよう導きましょう。ここでは、両極端に対してそれをします。その後、その歪みがもたらす害、それに関連する事柄、そして、霊的法則に照らしてそれが何を意味するのかを示します。

 

 かつて野心の欠如の根底にあった良い特質は、博愛、調和、ある種の忍耐力、謙虚さでした。その特質を持ち合わせた人は、際立って輝かなくても、他者より優れている必要はないことを意味していました。他者に勝つ為に一生懸命努力しても、平和には繋がらないからです。この野心の欠如という欠点を持っている場合、今言ったことを耳にすると、この傾向の肯定的な側面にしがみついて、その有害で誤った側面は忘れようとしかねないことを良く理解しておいてください。しかし、皆さんの欠点には、いわゆる肯定的側面や背景があることは覚えておくべきです。このことを土台にして、この欠点を克服する努力に力を与え、罪悪感を抱かないようにしてください。欠点はつけ加えられたものではないのです。全ての欠点は、かつては良い特質であったものが歪曲または極端に現れたものに過ぎません。更に言えば、性格の一部に欠点を抱えていたとしても、その他の部分は全く問題が無い可能性もあることを忘れないでください。多くの場合、皆さんは特にこの肯定的側面の傾向ばかりを意識し、否定的側面の存在に気づかぬふりをしています。しかし、周囲の人々は気づいている場合が多いです。しかし彼らがそれを声にすれば、皆さんは不当に非難されたと感じます。何故なら、皆さんにとっては、肯定的側面だけが存在しているように見えるからです。人間というものは、両価的です。つまり皆さんの内部に、いくつもの相反する傾向があるということです。

 

 野心の欠如がもたらす害は非常に深刻です。勿論、人生全ての面で野心を抱くことが、望ましい訳でも必要な訳でもないことは言うまでもありません。それは力の浪費だからです。しかし、野心が培われる時、何の目的で自らを訓練するのか、ふさわしい選択をするよう気をつけるべきです。それは、何か価値あるものであるべきです。このレクチャーで論じられた適切な決断に関わるテーマは、この天でも光明を投じてくれることでしょう。

 

 野心は多くの場合、望むものの代償です。野心の欠如に屈し、人生でひとつ、あるいはそれ以上の物足りなさを感じている場合には、野心を必要とする努力によってのみ支払われる代償を払う覚悟ができていなかったことに気づくべきです。霊的にも、野心の欠如は非常に大きな障害となります。この怠惰は、真の幸福と安心をもたらす唯一のものであるあなたの発展を成し遂げるのを妨げます。もし幸せに感じることなくこの特性を所有しているなら、自分のニーズが満たされなかったからといって恨むべきではありません。むしろ、この件に関する自らの決断がどのようなものであったかをはっきりと理解してください。一方、目先の安楽に屈することは、最も抵抗の少ない道を選ぶことです。ここでの不利益は、最も抵抗が少ない道を選ぶ誘惑と闘わない限り、葛藤、渇望、要求や不安は持続するということです。他方で、代償として根深い怠慢を克服する大変な努力が必要であり、それは絶え間ない奮闘と努力を意味します。ここで得られる利益は、暗闇、孤独、不幸の網から抜け出すことですが、それはあなたが心から闘い、ある程度成功したという十分な証拠が示された後でこそ得られるのです。あなたの選択をしてください。何故なら、例えそれが否定的な決断であったとしても、問題をはっきりと見ずに、自らを完全に掌握してこそ得られる結果を期待しながら、ほんの僅かな欠点だけを手放しているより遥かに健康的だからです。

 

 このことに無意識なまま、基本的な障害を克服する為の真剣な努力なくして霊的発達と心の安らぎを望んでいるなら、あなたは実際何らかの形で霊的窃盗を企てていることになります。それは、あなたが厳しい霊的ワークという代償によってのみ到達できる調和を得たいと思っていることを意味します。ここで必要な霊的ワークには例外なく、あなたの最大の欠点を克服することが含まれます。この観点から野心の欠如を理解することは、それを克服することを容易にするでしょう。今でも無理に自分に強いてワークをしているのであれば、欠点を本当に克服したとは言えません。これは感情が未だに抵抗し、あなたが自分自身と一体になっていないことを意味します。そうすると決断したのであれば、この事実を認識し、ワークを続けてください。いつの日か、神の恩寵と救いの影響により、かつては努力だったものが努力ではなくなります。これは、あなたの感情が外的な善意に従っていること、そしてこの点で、あなたが自分自身と一体になったことの証となります。ちなみに、今私はここで、特定の相手に向かって個人的にお話ししているわけではありません。質問に対する全回答は、同時に多くの人に向けられた言葉でもあります。

 

 ですから、友人の皆さん、この角度からこの欠点を熟慮してみてください。「もし何をやるにしても、私に野心がなく嫌々で、自らに無理を強いてやらねばならず、真の意志の力と熱意を以ってそれをやることが出来ないにも関わらず、それでも正当に私のものであるものを望みながら、そのことを感じていなければ、私の感情は何かを盗みたくなる。私は幸せやその他の結果を盗むことを望むのだ。」どうか理解してください。感情が何かを盗みたがると言いましたが、皆さんが意識的にそうしたいと思っている訳ではないことは知っています。ここで常に、誤解が生じてしまいます。

 

 私はたびたび、皆さんの感情の欲求を簡潔な言葉に置き換えてお話ししています。さもなければ、皆さんの知的理解を得ることができませんから。多くの場合、感情の欲求は無自覚です。そして友人の皆さんは、私が解釈する感情を不当な仕打ちとして受け止めます。何故なら、意識的には勿論、そうは考えていないからです。意識的に考えて心から望んでいることと、無意識にあることとの間には時折大きな隔たりがあり、本物の善良な願望が、皆さんが無視している反対の感情の流れによって損なわれている事実を、皆さんは見落としています。しかし当然ながら、皆さんは今のところ、そのことに気づいていません。これに気づくことは、非常に重要であり、それ故、私は時折この矛盾を指摘しているのです。これは、不必要に心を痛める感情を避ける為に言っているということを、よく理解してください。このような傾向に気づく為には、まずこの無意識の流れが常に送り出している明確な症状を理解し、解釈できるようになる必要があります。そうすれば、皆さんの周りにある症状全てが見えてきます。これまで皆さんは、症状を見過ごすことしか選んでいません。

 

 質問に戻りますが、ここで示された観点から、この傾向を熟慮してください。皆さんは当然、成果を望むでしょう。成果を得るには、何事にも努力しなければならないことを理解してください。そのように言われたからとか、「良い子」になりたいからという理由で、自分の意志に反する努力をしてはいけません。全てには代償があることを自ら理解した上で、自主的に、責任を持って、成熟した態度で努力した時にその状態に達する筈です。心の中でこの事実と闘うことは、神の叡智と正義に対する冒涜であるだけでなく、愚かなことです。

 

 反対の極端、つまり過度の野心に関して言えば、本来の良い特質は強い意志、努力の代償を払う覚悟、高次の領域で他人の為に働き、奉仕する意欲です。低次領域での目標は自己になります。ある種の利己主義、権力欲、独善性、より多くを持ち、より多くに成りたいというような貪欲さといった、誇張され歪んだ、否定的な側面を浄化する為に、ポジティブな側面を使ってください。多くの場合、過度の野心を持つ人々は非常に強い欲望の流れが身についており、目的を達成する為ならば、情け容赦なく他者を犠牲にします。繰り返しますが、そのように行なっていなくとも、そのような感情があれば十分に当てはまります。野心過剰は、誤った方向に流れ、あなたから平和を奪う不健全な欲望の流れを生み出すことを理解する必要があります。ここで、ある程度の無欲を達成する必要があります。完全に欲望を抑えてしまってはなりません。何故なら、意欲の無さという逆の極端に至り、不均衡な結果に繋がります。霊的な人は特に、どのような目的で、どのような所に野心を抱くのかを決めねばなりません。一方、無欲になる時が来たら、野心はやめるべきなのです。

 

 質問:拒絶感を抱き、それが恨みの感情にまで発展してしまう状況では、何が欠点なのかを知りたいのですが。

 

 回答:まず第一に、虚栄心が満たされていないのです。謙虚さが欠けているので、無意識の感情は、人格を拒絶してはならない、拒絶されてはならないと主張します。このようにして、あなたは誰からも、もしくは自分の選んだ人に受け入れられることを望みます。自らの要求が通らぬことに耐えられないのです。再度強調しておきますが、この感情は非常に多くの人の内に潜んでいるので、個人的にお話ししている訳ではありません。別な言い方をすれば、身勝手さがあり、自らが欲するところは満たされるべきで、さもなければ憤慨するということです。この感情を克服するには、まず傾向を別々に調べる必要があります。「私の意志が為されますように」という感情を引き出してください。そして、これが意識的になった時、適切な手順として自らにこう言うのです。「しかし、私の意志が常に満たされる必要はありません。必要なら、私は身を引くことを受け入れなければなりません。」謙虚さに欠ける所では、謙虚になれるよう努めてください。自らの欠点がない所で謙虚さを学ぼうとしてはいけません。これは偽りの安心感を与え、集中力や、最もワークが必要な所を見落としてしまう可能性に繋がります。

 

 次に、プライド身勝手さの組み合わせを認識します。同じように扱います。この特定の関係において、身勝手さとプライドの両方を克服できれば、恐れは解消されます。これらの傾向に固執する限り、つまり、いくら高次の動機で覆われていたとしてもこの小さなエゴの欲望を手放せないならば、その希望は叶わないのではないかという絶え間ない恐怖に囚われることになります。身勝手さとプライドを手放した途端、恐れは恨みと共に消えてなくなるでしょう。手放しとは、本物の絆で結ばれた相手や果たすべき使命を諦めるということではなく、欲望の流れを手放すことを言っています。恨みは常に、憎しみの芽から生じます。憎しみは最早、そのような形では現れないかもしれませんが、恨みが存在する限り、憎しみの根は依然として魂の中に残っています。それは必ずしも特定の人に対する憎しみではありませんが、憎しみであることには変わりません。

 

 拒絶や拒絶される可能性に憤慨する人には、必然的に強い衝動があります。そういう人の感情は言うのです。「私が望むことをやってくれなくて、私のことを好いて受け入れてくれないなら、恨んでやる」と。この強い衝動が自身の内に存在していなければ、どんなに小さな形でも憤慨することはできません。このことに気づいてください。このことに気づいた瞬間から、あなたは成長に伴い、感情の流れを徐々に方向転換できるようになるでしょう。これが、唯一の正しい方法です。この状況が急に変わることはありません。成長すればする程、これまでは単なる素敵な理論でしかなく、心の中で現実ではなかった真実を、より多く見て、感じ、知ることになるでしょう。真実は、皆さんに何かが欠けていても、それが何であったとしても、拒絶されることはないということです。ただし、自らの不安が原因で、意地悪く不愉快な人間になってしまうというような、稀なケースは除きます。そのような場合でも、その人は真の自己ではなく、単にマスクを選んだからこそ拒絶されているのです。一見心地よいマスクであっても、全てのマスクは悪です。それでもプライドと抵抗の態度から、好ましくない選択をする人がいます。拒絶は、拒絶する側の人生に対する恐れ、失望、劣等感、不安、そして感情に霊的法則を適用することを未だ学んでいない病んだ魂の症状の数だけ生まれます。手放すことを学び、プライドと身勝手さを克服して初めて、この気づきは得られるでしょう。「ありがとうございます。」

 

 質問:前回のレクチャーで、罪悪感の中に現れる恥の感情等についてお話をされました。多くの場合、この感情は他者に影響を及ぼします。そういう場合に、そのような感情にの中にいる人に対して取るべき正しい態度とはどのようなものでしょうか?

 

 回答:身近な人がこのような欠点を持っているという気づきは、それだけで大きな助けになります。あなたの気づきは例え言葉にしなくとも、助けとなる理解と共感を与えます。この気づきは、皆さんが不必要に傷つくことを防ぐでしょう。何故なら、霊的法則から逸脱して苦しんでいる人は、人を傷つけることが身を守る方法だと考える為、往々にして他者を傷つけるからです。それに相手は仕返しをし、悪循環が始まります。しかし、あなたが自ら何をしているのか理解していれば、このようなことは起こる筈がありません。更に言えば、自らの無意識が他者の無意識に影響を与えるという紛れもない事実があるということです。このような場合、無意識の恥と罪悪感は、周囲の人に無意識に吸収されます。これら全ては無意識に起こり、より深い感情のレベルで正しく理解されていない為、病的で否定的なものが感じられ、恥と罪悪感を抱えた本人の望みに反して、何か病的で否定的で好ましくない反応が表れます。

 

 友人の皆さん、意識的であろうと無意識的であろうと、感情、思考、態度ほど、伝染しやすいものはありません。これもまた普遍的法則です。ですから、病的な傾向に誰かが気づき完全に理解した瞬間、単に理解したという事実だけで悪循環は既に断ち切られるのです。ここで明らかにされている事実を完全に理解することは、更なる助けとなり、その人の心理的、感情的世界により建設的な真実の力を注入するでしょう。外的な対応に関しては、手順は様々です。当然、注意が必要です。多くの場合、魂の性質を理解する程には成熟していない人や、理解する意志のない人には、あまり多くを言うより何も言わない方が良い場合があります。あいかい、その人が心を開いており、これらを理解する力がある場合には、どうすれば相手にちかかづけるのかを手探りで見つけることができるでしょう。ガイダンスとインスピレーションを求めて祈り、自らを開いていれば、相手の受容が現れる正しい瞬間が訪れるでしょう。しかし、受け入れる力が欠けていて、そのような真実に向き合う準備ができる前に、あまりにも率直に真実を告げると、その影響は否定的なものとなり、相手は魂の扉を更に固く閉ざすだけです。まず一般的な話題について話し合い、個人的なことには触れず、それがどう受け止められるかを見るのが安全な方法かもしれません。その人が思慮深くなるどうか、そもそも原則として理解できるか確認するのです。もし多少なりとも好ましい反応が見られたら、ゆっくり少しずつ、常にインスピレーションとガイダンスを求めながら、真実の用量を徐々に強めると良いでしょう。そうすれば、あなたのスピリットの友人達は周りで喜んで助けてくれるでしょう。

 

 

 

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PGLNo32
PGLNo33

Pathwork Guide Lecture No.33   1996年版   1958年7月11日

 

 自己への専心:正しい信頼と誤った信頼

OCCUPATION WITH SELF -- RIGHT AND WRONG FAITH

 

 主の名のもとにご挨拶申し上げます。皆さん全員に祝福がありますように。また、この時間に祝福がありますように。

 

 このようなレクチャーを聴く時、たくさんの善き親切な人、あるいは霊的な人ですら、自分自身についてあまり多く考えるのは良くないことだと言います。もっと他の人のことを考えた方が良いだろうと感じているのです。そのような人達は、自分自身のことを考えて過ごすことは、利己的な我儘につながると言います。勿論それは、どんなやり方で自分のことを考えるのか、またはどのように他の人たちのことを考えるのかによって変わります。自己憐憫に満ちた否定的な態度で自分のことを考え、自分の運命について文句を言い、人生の中で逃してしまったかもしれないものや、自らコントロールできないもの、つまりは変えることのできないものについて無駄にくよくよと考え続けるようなやり方は間違っています。このような思いに傾きがちな人は、自分から他者へと焦点を移した方が良いとのアドバイスに耳を傾けるべきなだけでなく、自らを考える時に、それを違う方向、建設的な方向へと向けることを学ぶべきです。

 

 それができていない人にとっては、他者を助け、我儘を手放し、助けを必要としているかもしれない人々を援助しようと自らの何かを犠牲にする方法で、他者のことを考える方が余程健康的です。しかし、正しい自己への専心の準備ができている人達も又、正しく他者のことを考え、常にそれを実践せねばなりません。どちらか一方ということはないのです。自らの心配事や困難を忘れて何か役に立つことを行うというのは、あらゆる点で、自分の為にも他者の為にも価値のあることです。

 

 他者のことを考えるというのは、誤ったやり方で行われることもあり、また残念ながら多くの場合は誤っています。常に他者の問題ばかりを考え、批判し、又ジャッジし続けることは、 あなたの自己中心性を減らす助けにはなりません。自分のことではなく他者のことを考えているという単純な事実は、あなたが霊的に行動していることの保証にはなりません。自分自身のことを考えているという単純な事実が(もしそれが正しく行われているとして) あなたが自己中心的であることの証拠にならないのと同じです。全ては、それがどのように行われているのかによります。この極端などちらかにいる時、人は大抵自分らを欺きます。他者のことを否定的、批判的に考えている時、自分は何か良いことをしていると信じ込むのです。そして同時に、自らに専心することは危険であるという受けうりの意見にしがみつきます。自らの誤った態度を正当化する為にこの真実を誤用しています。生産性がなく、自らを弱めるような自己への専心というものも確かに存在し、大抵は「私は自分を知らなければならない」「自分が感じていることを分析しなければならない」というマスクの下に隠れています。しかし、こうしたことは何ひとつ実行されません。ですから、自分自身のこと、そして他者のことをどのようなやり方で考えるかに気をつけてください。友人たちよ、この点に関しても、自分自身を吟味してください。

 

 霊的に高度に発達した人々は、他者の為の自己犠牲に全力を尽くし、能力の限りを尽くして他者を助け、多くの善を為すかもしれません。しかし、こうした人々には霊的成長の為に更なるものが求められます。それは、霊的成長に必要不可欠な条件である動機の浄化であり、深い自己認識なのです。この課題を怠り、他者への援助に重点を置くことで問題から逃れる人もいるでしょう。又一方で、単にあなたが自分をよりよく知っているからと言って、他者への援助を放棄する必要がある訳でも、放棄しなければならない訳でもありません。その反対です。自分がこの範疇に入っていないか、どうぞしっかりと見てください。

 

 友人の皆さん、こうした言葉を聞いたり読んだりしている皆さんは、正しい種類の自己分析をする準備ができています。もう既に正しい行動をとり、また多くの点で正しい考えさえもお持ちかもしれません。しかし、よくご存知の通り、成長が進むに従いそれでは十分ではなくなります。あなたの感情が純粋で誤魔化しがないことが必要なのです。これを成し遂げるには、霊的真実や霊的法則に照らし合わせながら、自己探究や検証、自分の行い・考え・感情に対する厳しい判断や自己分析を行いつつ、自己への専心がどうしても必要です。

 

 自分自身を知らない人達に、他人を知ることはできません。つまり、自分のことを理解できない人は他者を理解できず、自分のことを愛していない人は他者を愛せないのです。ここでまた、自らを愛することは利己的である、という異議が申し立てられるかもしれません。繰り返しますが、それが真実なのは自らを甘やかし、人生で必要な痛みから逃れるために自己愛が使われた場合のみです。これは甘やかすべきではない、厳しく扱うべき小さな自己です。ですが、もし、あなたが健全な自己尊重を持たず、神聖なる存在、つまり、より偉大なるあなたという存在を愛していなければ、本当の意味で他者を愛することはできないでしょう。この地球の為に、スピリットとして計画してきた霊的成長を追い求め、達成する時にしか正しい種類の自己尊重や自己愛が現れることはありません。これを疎かにするならば、例えどれ程の言い訳や自己欺瞞で誤魔化しても、無意識の深い場所では自分が成長する筈だった程には成長していないという事実が残ります。考えや行動でないとするなら、あなたは感情で霊的法則をいくつも破っていることになり、又、なんらかの方法で自分自身から逃れようとしているのです。どれほど巧く合理化しようとも、このすべては劣等感の真の原因である自己嫌悪につながります。それ故、人は他者の為に自らを捧げ、霊的成長において最善を尽くすことでしか、自分自身に敬意を払うことはできません。そしてこの揺るぎない自尊心がある時にのみ、真に他者に敬意を払うことができるのです。さて、友人たちよ、これでどのように環が閉じるべきかもお分かりでしょう。

 

 正しいやり方で自分自身に専心する程に、自己中心性は減っていきます。するとより上手に他者を助け、他者の為により良い働きができるようになります。自らについて批判力をもって注意深く考え、他者について深い思いやりを持ってください。ですが、どれだけの人が、霊的な人ですら、この逆を行っていることでしょう!自身の欠点、悪い癖など、例え他者にはすぐに分かるようなものでも無視し、口には出さなくても感情や考えを通して他者を非難する準備がいつでも整っているのです。

 

 友人たちよ、自らの欠点を認めることを学ぶように、他者の欠点を受け入れることを学んでください。ここでも、それを正しく行う方法がきわめて重要です。これについては、これまで十分にお話ししてきたので改めて詳しくは述べません。自分自身の欠点をきちんと受け入れるというのは、思っていた程、自分は完璧ではなかったことを発見したからといって自虐的に落胆することではないし、また今の自分のままでいたがることとも違います。 それぞれの人間の傾向に関して、ふたつの完全に間違った極端と、1 つの最も難しく正しい中道が見つかるでしょう。そうすればきっと何であれ、それ自体に良いも悪いも、正しいも誤りもないという、より良い理解にたどり着くでしょう。これがどのように行われるのか、つまり誤ったふたつの両極の間の中道を見つけられるかどうかで、正しい道を進んでいるかどうかが決まります。

 

 正しい方法で自らを受け入れる時にだけ、他者をありのままに受け入れることができるようになり、また、真の成果をもたらすことができる場所、つまり自らに努力を向けることを求める霊的法則に従って生きることができるようになります。自らに変化をもたらす力を持つのは、あなただけです。他者を変えることは絶対にできませんから、この方向ではあなたの努力は水の泡となります。しかし、あなたが変化することで他者に影響を与える手助けはできます。そうすれば、その人は自らも変わろうと決めるかもしれません。あなたが先に例を示した時にのみ、その影響は真に実りのあるものとなります。他者の欠点によって何らかの不調和がもたらされる場合は、あなたが深い場所で相手を変えることができないという事実に憤慨していることを示しています。その憤りは、あなたが霊的法則を破っていることを意味します。本当の自分をそのままに受け入れるという点で、今自分がどこに立っているのか、謙虚さを持って確認することは最適な指標となります。他者の欠点に直面する時に穏やかでいられればいられる程、あなたはありのままの自分を受け入れることになります。このようにして、どれほど多くの不完全さがまだ内側に残っていようと、あなたは健康的な基盤を魂のうちに持つでしょう。しかしながら、現時点での他者のあり方に対して、あなたが内側で戦えば戦う程、同様に自分自身を受け入れることを拒絶することになるのです。親愛なる友人たちよ、これについても考えてください!

 

 ですから、他者をありのままに受け入れること、また、あなた自身にはないかもしれない欠点に寛容になることを学んでください。そして多くの場合、これより更に先へ進まねばなりません。あなた方はとりわけ、まさに自分の中にある同じ欠点を見て相手を非難します。勿論、皆さんはそのことに気づいていませんが、そうなのです。徹底的に自分自身を知ることでしか、他者を受け入れ、より理解し、より愛することはできません。寛容になる為に盲目になる必要はありません。基本的に不寛容な人は、相手に対する強い愛や共感がある時には、相手の欠点を見ようとしないことが良くあります。この場合、欠点を見たくないということは、欠点に気がつくことが相手を愛さなくなることを意味するという、深い恐れを示しています。これは勿論、不寛容に他なりません。もし愛する者の不完全さを受け入れることができるのならば、目を閉じる必要はないでしょう。この誤った反応に加えて、このような人は自分がとても寛容なのだと信じ込みます。なぜなら、愛する人の中に欠点を見ることがないからです。これは人々がよくかけるマスクのひとつです。真の寛容さや受容というのは、他者の欠点をはっきりと見、愛することを恐れず、それらの欠点にかかわらず敬意を払うということです。このような態度でいることは、周りにいる他者を助けるだけでなく、自分自身をも助けます。

 

 親愛なる友人たちよ、このテーマについて、全員に注意深く考えていただくようお願いします。こんど瞑想をする時、他者に対して批判的になり過ぎていないか、または、意識的でなくとも実は他者を非難していないか、自分自身に尋ねてください。他者に対する感情的反応もそれになり得ます。この点において自分自身を吟味し、他者の誤りと忙しく戦っている一方で、自分の誤りに盲目的になっていないか自問してください。もしあなたがこれを行い、気づいたことに対して正しいやり方で反応すれば、この態度の変化によって大いなる新たな平安を得られることをお約束しましょう。あなたの平安や内なる調和を奪っているのは他者の行いではなく、常に、そして単に、自分で変えることのできない状況に対する、あなた自身の誤った態度と内面の戦いなのです。そして、更に言えば、状況を変えようとすべきではありません。あなた自身が変わるべきです。そうすることができれば、あなたは自由になり、また他者の行動や反応からこれまでにない自立を感じ、結局のところ、他者があなたに危害をもたらすことなどできないのだと知るでしょう。

 

 では次に、信頼のふたつの側面について取り上げたいと思います。多くの人は、霊的成長を追い求める為の努力に誠実でいますが、その信頼は完全という訳ではありません。どこかに必ず「これは本当に真実なのか? 妄想ではないのか? この全てに騙されているのではないか?」といった隠された疑いがあります。友人たちよ、こうした傾向をどう扱ったらよいのか、お話ししようと思います。

 

 まず、その密かな疑いについて考えないようにすることは賢明ではありません。誠実な善意から、あなた方はこれを頻繁に行っており、そうした疑いを持ちたがらない面があります。そしてどういう訳か、隠すことで疑いがなくなるように思うのです。しかしご存知の通り、無意識に追いやられたものを上手く取り扱うことはできません。疑いが自分の進路を変えてしまうかもしれない、そうなったら霊的な努力が失敗に終わるかもしれないと決めてかかり、あなたは疑いが表面に上がってくることを恐れます。

 

 しかしながら、そうである必要はありません。疑っているのはあなたの一部であって全人格ではないこと、そしてその部分があるにも関わらず、確かに信じている別の部分があることをはっきりと理解すれば、 自らの疑いを認識することが霊的な奮闘を諦めることになるのではという恐れはなくなります。人間の魂はあらゆる点で、矛盾した流れでいっぱいなのです。気づきたくない否定的な部分に直面した時に絶望せず、これを理解するのが早ければ早い程、事態は良くなるでしょう。そうしようとする時、どちらか一方の傾向が本物なのだという誤解が邪魔をします。しかし、あなたの魂の中ではそのどちらもが実体を持ち、互いに戦っているのです。自分のものだとは認めたくない側面を認める勇気が欠けている限り、この戦いが終わることは決してありません。お伝えしたように、ふたつの矛盾した流れが原則的に同時に存在し得る、実際に存在しているということを理解すれば、それを認めることは易しくなります。いずれにせよ、それに関しては「信頼」対「疑い」だろうと、他の内なる問題であろうと違いはありません。自分の中のその疑っている部分を認めたら、次の助言に従ってください。信頼という名では表現できない程のこの完璧なる知識と、神の存在の体験が人に与えられるということは、神の恩寵であると知るのです。完全なる信頼の欠如について、あなたの謙虚さを育ててください。自分にこう言うのですー「私はまだこの恩寵を受けるに値しません。私は、自分が何かに値するかどうかを決める立場にはありません。自分の不完全な信頼とともに懸命に進んで行かなければならないのです。私の存在の意欲的な部分は、人生をよりうまく扱い、より効果的に他人を愛し助けるために、成長し、より良く、より感情的に成熟した人間になりたいと願っています。この努力において、私は神の恩恵が与えられるまで辛抱強く謙虚に待ちます。」

 

 これらの考えや感情を育て、行く手を阻み道を塞ぎたがる自らのローアセルフと戦い続けるならば、いつの日か、この完全なる信頼があなたのものとなることをお約束します。その時には、あなたは完全に納得のいく形で神を体験するでしょう。しかし、他者がどれほど熱心にその体験や恩寵を伝えようとしても、あなたを説得できないように、あなたが神の真実と存在を自分の人生の中で経験した時にも同じことが起こります。この神の恩寵、つまり完全なる信頼を得る為にまだ奮闘している人達に、これを伝えることはできません。一人ひとりがそれぞれに奮闘して、魂の成長におけるこの重大な体験と根本的な変化を得なければならないのです。

 

 信頼のもう一つの側面は、完全な信仰、つまり、その人にとって可能な限り完全な信頼を持っている人々がいるということです。何故なら、魂のあらゆる不純物は、何らかの形で信頼の完全性にも影響するからです。完全なる信頼とは、人生においてどんな不調和もなく、あらゆる点で恐れがないことを意味します。しかし、そのような境地に達した人はひとりもいません。ですが、信頼が他より強い人達もいます。このような人達にはしばしば、自分は神にとって特別な何か、最愛の子供であるという無意識の感情があります。例えば、自分は神のお気に入りの子である、父なる神との関係で特に親しい立場にあり、非常に特別な存在であり、神を自分のものにできると考えています。これは有害で、危険な感情でもあります。危険というのは、そこに多大なプライドが含まれているからであり、また自分自身を欺くのがいとも簡単だからです。この信念は素晴らしいもので、自分の献身と霊性の現われなのだと、自己正当化する準備がつねに整っているのです。

 

 これは、神に近づきたいという願望、創造主への愛といった善良で純粋な動機が、霊的な自尊心や同胞からの分離といった悪い不純な動機と混ざり合っている例のひとつです。自分と神との関係性の中に、そのような感情が存在することは知性では全く分かりませんから、 ここであなたのやるべきことは、 それが自分に当てはまるのか、もしくはどの程度当てはまるのか、自らをよく吟味することです。そのような感情を少しでも発見したら、神の目には、あなたは他の誰かより上等でも重要でもないのだと思い出してください。自分は神にとって特別な何かだという感情は、あなたの成長における移行状態だと捉えることができます。プライドや身勝手さがなくなるより前に、神への憧憬や愛が目覚めてくるのです。ふたつの反対の傾向が一時的に結びつきます。しかし、あなたはそれに気づかねばなりませんし、また、それが正しく良いことだなどと一瞬たりとも信じてはなりません。これは成長のプロセスの一部であり、あなた自身の手で細かくふるいにかけ、浄化しなければなりません。

 

 これが当てはまるかもしれない人たちに、あなたが神について考え、感じ、また神に近づこうと努力する時、自分の感情をよく吟味することをお勧めします。すべてはあるべきようにあると思っていても、自分は他の人よりも神に近く、より愛されていると信じている、自分で未だ気づいていない隠された感情が何処かにないでしょうか?この感情の根は、今はまだ信頼が本物ではない人々の中にさえ存在しているかもしれません。が、信頼が完全なものとなり、移行期が展開し始めた途端、それはより強く現れるでしょう。ですから、もし特別感が少しでも自分に当てはまるかもしれないと気づいたならば、自分と同胞との関係性に全力を注いで取り組み始めてください。

 

 神に特別に愛されていると感じている人々には、しばしば独特の不寛容さが見受けられます。他者に対する一種の傲慢さもありますが、それは必ずしも外側に見える行動にではなく、内側の態度にあるかもしれません。瞑想の中で、あなたがそれほど尊敬していない人、あるいは知り合いの中で一番好きではない人、またはあなたが苛立ちを感じる相手を選んでください。そうしたら、神があなたのことを愛しているのと同じように、その人のことをどれほど愛しているかを考えてください。たとえ相手のほうが霊的に成長していなかったとしても、それでもその人は神に愛されているのです。 友人たちよ、これは素晴らしいエクササイズであり、あなた方に必要な良薬となります。

 

 人間の魂は、そう言ってもよければ、とても複雑な「構造」の一部です。浄化とは、単に欠点の克服にあるのではありません。そんなに簡単なものではなく、長い時間がかかります。まだ気づいていない自らの傾向や反応の多くを深く理解した後に、ようやく浄化が可能になります。ですから、完璧になるということは、それが究極のゴールであったとしても当面のゴールではありません。究極のゴールを知りつつ、まずは目の前のゴールに向かって、つまり、自分自身をありのままに知り、受け入れることに取り組んでください。これは、自分自身について幻想を抱かないということも意味しています。たとえば、自分の短所に対して健全な態度を身につけること、人生のルールに従って生きる術を学ぶこと、時には必要である困難から逃げないこと等。ここで学んでいる全てのことが含まれます。これが成し遂げられた後、ようやくあなたは誤った傾向を改め、これまでと違った反応をし始めるでしょう。まずは自らの動機を明らかにして、それを浄化してください。同じひとつの作用・反作用のパターンの中で、良くない動機を良い動機から分けてください。これが今のあなたがやるべきことです。

 

 信頼が欠けていても、努力することを止めないでください。あなたは善き人ですから、善き人として、どこにいたとしてもさらなる善を行えるように、より良く、より完全に、より純粋に、より愛情深くなることを望んでいます。もし、神が本当に存在するのかどうか確信している訳ではないからと、この大変な取り組みをつねに神の為には引き受けられないとしても、あなたの本質的な要素である他者への愛のために行ってください。まだ信頼が弱い人は、先ほど述べたような、信頼が強く、神の目には自分は特別な立場にあると感じている人に比べ、他者への愛が大きいことが多いのです。そのどちらも移行期間であり、いずれは明らかになって完璧のうちに調和するでしょう。

 

 さらに、試練があなたに降りかかる時(これは必ず降りかかりますが)、あなたの思考能力が麻痺しないよう祈ってください。難しい局面になるとこうしたことがよく起こるからです。ひたすらこの思いに留まってください。「父なる神よ、今この瞬間、困惑し、不幸で、混乱しているとしても、私に明確な見方を与えてください。私が知っていることを忘れないように助けてください。今の私のとても限られた視界に映るのとは違う、この状況でのあなたの真実を私に見せてください」

 

 試練が来ると皆さんのものの見方が完全に歪むのをよく見ます。自分の否定的な見方だけが真実だと信じ込むと、あなた方はいとも簡単に絶望します。完全に分かっていたことすら、その瞬間には忘れてしまいます。自分が引き寄せた悪の力によって麻痺状態になり、いつもなら明らかに見えていることも見えなくなり、考えられなくなります。そうして思考が闇に覆われてしまう為、神の真実を求めようとは思いつきもしません。闇から出てきて初めて、自分がどれほど盲目になっていたかに愕然とするのです。

 

 いち早く神を頼り、私が説明してきたことを十分に理解すれば、多くの困難な時間を節約することができます。思考を訓練し、無意識、つまり「忘れられた」真実が見つかるかもしれない魂の部分を掘り下げるように思考を訓練することで、一時的な盲目状態と戦ってください。いずれ来たる試練の為に、自らを鍛えてください。そうすれば、精神的により良く準備のできた状態で向かい合うことができるでしょう。

 

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Pathwork Guide Lecture No. 37  1996年版  1958年9月26日

 

 正しい受容と誤った受容:謙虚さにおける尊厳

ACCEPTANCE, RIGHT AND WRONG WAY -- DIGNITY IN HUMILITY 

 

 至高の主と神の名においてご挨拶します。友人たち全てに祝福を。この時間が祝福されますように。

 

 心から神への賛意を表す人は幸せです!しかし、皆さんの世界にはそういう人がなんて少ないことでしょう!長い上り坂を進み、サレンダーすることができるようになった人もいれば、中途半端な妥協をしただけで、サレンダーしたと考える人もいます。

 

 神のために心からする決断とは何でしょう?それには常に、何かを諦めることが含まれます。意見、欲望、おそらく生き方を手放すということでしょう。しかし、実際には何も手放しません。皆さんにはサレンダーは「手放す」かのように見え、この手放しは実行されねばなりません。それを行う意志を示し、その一歩を踏み出すことで、手放したものより遥かに多くのものを実際に受け取っていると気づきます。何も手放していなかったことが分かるのです!この逆説は無知という雲で覆われます。神の為なら重要なものを犠牲にするのも厭わないことを示すと、それは自然に消えてなくなります。

 

 多くの人が、神のための決断を律する法則を、世を捨てて修道院に隠遁することだと誤解して解釈してきました。そのような禁欲主義者は何も手放さないことが多く、その一方で、世間に留まりながら自らの人生を真にサレンダーする人もいます。そのような人々が神の為に行った心からの誓いには、行い、言葉、意図において神の意志とその成就が表現されます。周囲の人たちがまったく気づかなくても当然です。多くの場合、神はその人が最初に手放したものを返してくださいます。神以上に執着するものはないと示せば、皆さんはもう一度、新たなより良い形で、それを受け取ります!手放さなくてはならないものは、必ずしも悪いもの、間違っているもの、不道徳なものとは限りません。頑ななまでに執着し、神の為に手放すことができないというだけで十分なのです。皆さん、これが重要な点です。

 

 神に全てを委ねようとしないのならば、友よ、どうしてこの道を進むことができるでしょう?浄化、成長、神との関係を二の次にして世俗的なものを重視するのであれば、どうして神の子になることができるでしょう?神に妥協することはできませんが、多くの場合、皆さんは妥協したいと思うのです。祈り、自らの過ちについて少しだけ考えるだけで十分だと考えます。そして、神と神の呼びかけがまるで存在しなかったかのように人生を続けます。片足をこの道に、もう片方を古い生き方に置いて立つことはできません。古い生き方は、あなたにトラブルしかもたらしませんでした。

 

 肉体にあるものであれ、肉体の外にあるものであれ、その基本的な試練は、神の世界から最終的にその信念を実践するよう求められる成長段階で来ます。最初のうちは長い間、信念も真実も見えません。転機が訪れるのは、実体が光を見始め、神の存在を感じ、神を信じるようになる時です。そして、その信念は証明されねばなりません!神が探究者にはっきりと語りかけるような出来事が起こります。「本気なのか?本気で信じているのか?あなたにとって、私は他の何よりも重要なのか?」折に触れて祈るだけでは十分ではありません。神はその全てを与えられるように、あなたの全てを求めておられます。神に自らを差し出すことによってのみ、あなたは自分との平和を得るでしょう。心の安らぎが欠けている時はいつも、魂の一部を天国の父から遠ざけていることの表れです。皆さんには、神を望み、自らを神の子として経験したいと望み、成長し、浄化したいと望んでいる部分もあれば、自分の方がよく知っていると考えている部分もあります。神の条件ではなく、自分の条件で神に近づきたいのです。完全かつ全面的に神にサレンダーすることは、何らかの形で自らの不利だと考えます。その為、自らの限界を至高なるものに投影するのです。

 

 完全に受け身になることが求められるという意味だとは誤解しないでください。神のために犠牲を払い、身勝手さを克服することは正しい活動です。ハイヤーセルフと戦う時はいつでも、誤った種類の活動をしているのです。

 

 天使の堕落の過程で、創造のあらゆる神聖なる側面は、その対極に変質しました。これは容易に見て取れます。愛は憎しみや恨みに、正義は不正義に、美しさは醜さに、調和は不調和にというように。神の子や、最早深い暗闇にはいない被造物にとって、これらの極端は危険なものではありません。しかし、善良なものや現実として示された多くの層によって覆われ、隠されている、歪んで誤った極端さがあります。皆さん、または皆さんのような多くの人々は、ハイヤーセルフ、ローアセルフ、マスクセルフといった、人格の中にある偽りの美徳と本物の美徳を区別することができません。この同じ真実と偽りの共存は、地球上のあらゆる神聖なる力、側面、内向きの流れに伴っています。

 

 最も誤解されている神聖なる流れのひとつが愛です。実際には愛とはまったく関係のない、他の多くのものが愛を装います。孤独の壁を打ち破りたいというエゴの切望は、愛を装います。独占欲もそうです。このことについては、エロスの愛とその意味、完璧な理想そその逸脱についてお話しする時にもっと詳しく述べるつもりです。しかし、今夜のテーマはそれではありません。

 

 今夜は、悲観的かつ否定的にならずに人生の逆境を受け入れるという神聖なる法則にどう従うかについて話し合います。皆さんの世界では一般的に、特に友人の皆さんの間で、このテーマについての大きな混乱が見られます。人生の受容は神聖なる方法です。良いことも悪いことも、人生がもたらすもの全てを受け入れ、かつポジティブな態度を失わないことです。困難なことを受け入れようとしない身勝手さの葛藤の中に歪みがあります。殆ど全ての場合と同様に、人生の条件を受け入れることの拒否は表面上にあったり、あるいは深層に隠されていたりする場合があります。悲観的で否定的になることも同様に、神の法則に反します。闇の力にそそのかされたローアセルフは、悲観的で否定的であることは、人生の困難を受け入れることだと信じたがります。一方、困難が存在し得ることを否定するのは、ポジティブで健全な態度の歪みです。

 

 正しい道は容易には見つかりません。自己診断や瞑想が、必要としている答えに自らを開く助けとなってくれるでしょう。あなた方それぞれが、何処でどのように正しい道から逸れるのか学ぶのです。しかしまず、それぞれの魂の内でどのように受容が実践され得るのか、原理的に説明させてください。

 

 人生の逆境を受け入れることは、全てを悲観的に見るということではありません。真の正しい道とは、「私は、人生が幸せと同じく不幸ももたらすだろうと思っている。人生の雲にはひるまない。暗闇を恐れない。勇気をもって逆境を乗り越えてこそ、幸せに耐えることも、幸せを与えることもできるのだ。」霊的な安定に到達するには、歪んだ自己愛、自己憐憫、臆病から不幸にひるまないことです。逆境から学び、最も暗闇の時に、神があなたに学ばせたいものは何なのか、不幸を招いたのが自分の中の何かを神に問うなら、それは正しい態度です。太陽は二度と輝かないと考えることを自分に許さなければ、建設的に暗闇を受け入れ、その暗闇の時間の内なる原因を見つけるでしょう。

 

 あらゆる困難とは別に、プライド、身勝手さ、恐れに関して試練や苦労がもたらされる度に、同じように誰もが学ぶべき一般的な教えがあります。不幸に抵抗し奮闘する探究者は、プライドから行動しているのではないでしょうか?人格は頻繁に感情的な爆発で反応していませんか?「なぜ私が不幸になるのだろう?不幸になりたくない!」完全な存在だけが、多かれ少なかれ無意識の内にあなたが幾度となくするような要求を正しく行えます。皆さんを不幸の中で苦しむようにしているのは、身勝手さではありませんか?困難な時、誰もがそれを学ぶことができます。不幸を必要な薬として受け入れることを学び、ずっと病気でいるだろうとか、いつもその薬が必要なのだというようなことを考えることがなければ、あなたの恐れは去るしかありません。人生を受け入れるというのはそういうことです。

 

 人生を受け入れるつもりがないことや、受容に対する内なる葛藤は、様々な形で現れる可能性があります。皆さんは知性でなんらかの教えを理解しているので、不幸になることを拒むことを素直に認めることができないかもしれません。果敢な抵抗、自己憐憫、何らかの形で人生や問題から逃れたいという願いは、人生が表すもの全てを感情的に受け入れている訳ではないことの証明です。個人的な人生の逆境に対して抱く調和を欠いた感情が何であろうと、人生のルールを内的に受け入れておらず、困難に対する個人的な責任を負うことを拒否し、薬を飲もうとしていないことを示しています。自らの感情を解釈し、その意味を知ることを学んでください。そうすれば、マインドの中でより明確な形が得られ、自分自身についてより深い意識に達する助けとなります。

 

 次のように自問してください。「私がこのように感じる訳は何だろう?私は人生の現実と戦っているのだろうか?私の葛藤は、人生が教えてくれる教訓をプライドや身勝手さから拒絶していることを示しているのか?私はこの教訓を、自らを愛し過ぎという証を恐れているのだろうか?小さな傷つきや不利益を恐れているのだろうか?」友人たちよ、探究の自問は、悲観的なことでも、否定的なことでもありません。悲観や否定性であればこう言うでしょう。「もう不幸しか期待できない。太陽はもう二度と私の為に輝いてはくれないだろう。」知性ではそれを受け入れたくなくても、感情はそのような絶望を示すこともあります。その感情を分析してください。多くの場合、人は否定的で悲観的になることで、人生の教訓を受け入れていることを証明できると考えます。実際、否定的な態度は、人生の教訓を拒否し、もがき苦しんでいる別の方法に過ぎません。

 

 神の属性のもうひとつの歪みは尊厳に関するものです。尊厳は神の側面です。それが歪んだものがプライドです。人間は、尊厳とプライドを取り違え、プライドを尊厳だと思っていることが多いことに私たちは気づきます。完全な謙虚さなしには生きないものが尊厳です。エゴの性向が非常に強く、身勝手さが優勢な人は、どうしても高慢であり、尊厳を併せ持つことは不可能です。身勝手さ、プライド、虚栄心、自己中心性が魂にあると、必然的にそれは行く先々で恐れを生じさせます。恐れと尊厳は共存できません。その時に応じて謙虚になれる魂は、真の尊厳を知っています。「私が間違っていた。許してください。」と仲間に謙虚に言う以上に気高いことがあるでしょうか?皆さんが頻繁に考えたり感じたりする思いとは裏腹に、尊厳を傷つけることは絶対にありません。屈服したくないからという理由だけで、頑なに自分の主張を貫き通すことがどれほど多いことか!どうしてですか?誤解された尊厳の概念は、尊厳の正反対であるプライドそのものに他なりません。霊的に目覚めてない人は、このふたつを簡単に混同してしまいます。

 

 皆さん、何が真実であり、良いものであり、正しいかを提示する、誤って示されるマスクされた神聖なる流れに注意してください。あなた方の世界では今、そのような歪みに執着する傾向が非常に強くなっています。かつて、闇の勢力はそのような手段に訴える必要はありませんでした。人類が原始的な発展段階にあった時、人を神から引き離すには真っ赤な嘘だけで十分でした。今日、人類は進歩し、明らかに邪悪なものが多くの人を惑わすことはなくなりました。闇の勢力が常に効果として狙うのは、良いものを混乱させ、歪んだ形で伝えることです。この新しい戦術によって、更に判別が難しくなりますが、明らかに皆さんには、その微妙なニュアンスを見極め、真実の歪曲を見つけ出す力があります。

 

 質問にお答えする前に、お話ししたいことがふたつあります。ひとつは、このグループは素晴らしい祝福を受けており、スイスにあるグループも同様です。スピリットの世界には壮大な計画があります。私の友人の何人かは、それを感じ始めているかもしれません。私たちは今、ここにひとり、国外にひとり、ふたりの霊媒を訓練中であることを嬉しく思っています。この取り組みは、訓練が終了した時だけでなく、継続中の内から、多くの目的を果たすでしょう。霊媒達と、顕現するスピリット達の浄化を同時に可能にし、また出席している人々の浄化も可能にします。このグループの教えに従う友人の皆さん全員が、これが持つ大きな意味に気づくよう、今夜この展開をお伝えします。

 

 現実的な理由から、特に参加者の浄化に関する話し合いを含むふたりの霊媒のトレーニング・セッションをテープに録音し、ふたつのグループ間でこれを交換することを提案します。このようにして、皆さんは互いに学び合います。継続的かつ定期的に交換を行うべきです。これは両グループにとって非常に重要です。こちらの小さなグループで始まったことは、海の向こうのグループにも非常に役立つでしょう。

 

 そして今夜、何人かの皆さんにお願いしたいことがあります。このグループは祝福されており、グループの一員は皆んな祝福されています。このような大きさのグループで避けられない非常に人間的な敵意や誤解が全て正され、霊的な態度で接することができれば、神の世界にとって大きな喜びとなるでしょう。勿論、皆さんには自由意志がありNOと言うこともできますが、もしやる気があるのであれば、嫌いな人に向かい合ってみてください。その人を特に嫌う理由を注意深く考えてください。客観的になるよう心がければ、きっと自分が何らかの形で主観的であることに気づくでしょう。もしかしたら、自らの虚栄心が傷つけられたか、知らず知らずの内に相手の虚栄心を傷つけ、感情的反応が生じたのでしょう。そのように、人の嫌悪は常に正当化できるのです。特別な出来事がなかったとしても、相手の良い点を見つけようとし、自らの反応の客観的な要因を静かに探ってみましょう。ごく僅かな良い意志によって、対立関係にある二者間に愛の絆が築かれる可能性は大いにあります。共通点を探してみてください。皆さん誰にでも、共通点はあるからです。傷ついたプライドの影響を受けたであろう思考や感情ではなく、その共通点に基づいて事を進めてください。誠意をもって、自らの良い面を示してください。時折隠れるように見えるあなたの心の寛大さを示してください。

 

 実際に何か出来事があった場合は、慎重かつ機転を効かせて詳細を検討しましょう。その出来事についていつ話し合うべきか、そもそも話し合うべきではないのかは、あなたがどれだけ恨みや盲目さから解放されているかによります。ことによっては、そのような出来事をグループで取り上げることは有用な場合もあります。いずれは「敵対する者」と自由に話せるようになり、誤解だと感じたこと、互いに傷ついたこと、何故嫌悪感を抱いているのかを冷静に説明できるようになる時が来るでしょう。当事者は常にどちらも傷つきます。正直に自らを客観視することができるなら、自己尊厳と思っている何かに邪魔をさせずに、静かに耳を傾け、相手の視点を理解する努力をしてください。不調和の原因はないことに気づくでしょう。

 

 友人たちよ、全ての誤解や傷つきは想像上のものに過ぎません。それらは、皆さんが少なくとも部分的に生きている、この暗闇、この地球上での副産物です。傷つく理由があると何度も思いますが、それは真実ではありません!勇気を以って、誤解しているかもしれない相手に向かって最初の一歩を踏み出してください。そうすれば、あなたは更に浄化されるでしょう。嫌いなものや、何らかの形で自分に向けられていると感じるものが強く見えることもあります。従って、はっきりとは見えないのです。知性的には相手に素晴らしい資質があると認めるかもしれませんが、感情的には本当にはそうは思わないか、少なくとも見つけたいとは思わないのです。

 

 この提案を実践することで、あなたは自らにとっても、また関わっている他の人々にとっても、良いことを為します。とはいえ、私がこのことを求める理由は、グループ全体にとって和解のエネルギーが重要だからです。友よ、自分を傷つけたと思う相手にハートを捧げることは、とても価値のあることです。

 

 悪い感情や悪い考えは、宇宙の破壊的な力を増大させます。こうした感情や感情のひとつひとつがどのように大きな醜いよどみに流れ込み、最終的にこの世界のあらゆる傷、犯罪、不正、戦争という邪悪の原因となるのかを漠然とでも皆さんが理解できればいいのですが!その気づきは、真実ではない思いを持つように自分自身を欺くものであってはなりません。歪みは正しい道ではありません。その道は、まずこのように言う勇気を持つことです。「これが私の感情だ。間違っているかもしれないと分かっている。でも、そう感じるのだ。」客観的に感情を観察し認めることができれば、自らの適切な浄化に向けた最初の一歩が踏み出されます。現時点で抱かざるを得ない誤った考えや感情は著しく強制力を失い、自分と宇宙の両方に加える悪影響は少なくなります。勇気ある認識と良き意志が、これらの影響が小さくし、変化させるのです。その存在に気づいていなかったり、それを正当化しようとしたりする時に、これらの影響は非常に強くなります。

 

 親愛なる皆さん、祝福を受けてください。

 

  

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PGLNo37
PGLNo40

Pathwork Guide Lecture No. 40  1996年版   1958年11月21日

 

更なるイメージ探し:まとめ

MORE ON IMAGE-FINDING: A SUMMARY 

 

 

 神の名においてご挨拶申し上げます。親愛なる皆さんに祝福を。この時間が祝福されますように。

 

 このレクチャーでは、少し前に始めたシリーズを続けます。このシリーズの以前のレクチャーを逃した人達の為に、浄化の道のこの段階での精神的取り組みについて少しお話ししたいと思います。

 

 真の意味で浄化とはどういう意味でしょうか?それは、神聖なる法則に反するあらゆる魂の流れと態度を取り除くことです。そのような流れは単に罪深いとみなされるだけでなく、例え無意識であっても、法則を侵す者に個人的損害および苦しみをもたらす原因となります。

 

 このグループに関しては、間違った行動も犯罪も心配していません。皆さんは全員例外なく、適切な行動が何であるかを知っています。そして大抵の場合、適切な行為だけを行なうよう最善を尽くしています。だが、これまでのところ、自己の感情をコントロールし、その隠された意味を理解し、その感情が人生にどのよう影響を与えたかを認識できる人はまだいません。

 

 皆さんの中には、神の正義を絶えず疑っている人が多くいます。何故なら、善良かつ慎み深くあろうと最善を尽くしているのに、非常に多くの苦しみに耐えなくてはならいからです。自分よりも倫理基準がかなり低くても、うまくやっているように見える他人のことを思い浮かべるからかもしれません。あなたには、その理由も「正義」も分かりません。その理由は、無意識な人格が反応と結論を生み出し、それが硬直した形をとるからです。私達はこの硬直した形を「イメージ」と呼んでいます。イメージは、一般的な結論を導き出す、ある種の印象から造られます。それは魂の中で連鎖反応を引き起こすだけでなく、最終的に外側の人生を支配し、方向づけます。イメージは無意識であるにも関わらず、また無意識であるが故に、そのように働くのです。この道では、人間の魂が抱く誤ったイメージを探し出すことをします。使命を果たす為に地球上に来たごく僅かな浄化された存在以外、このルールに例外は実質的にありません。

 

 前回2回のレクチャーでは、イメージをどのように探索できるのかを説明し始めました。それは簡単なプロセスではないでしょう。何故なら、無意識の内にあるものは、意識的な認識から隠されているからです。この無意識のイメージを表面に出す方法を紹介しました。友人の皆さん、それが人生をある程度コントロールする唯一の方法なのです。

 

 謙虚さの証しとしてどんな困難も受入れなくてはならないと考える人はいます。多くの場合、敬虔な宗教家です。しかし、これは自分が侵した法を受け入れた範囲においてのみ真実です。親愛なる皆さん、真の謙虚さとは、「法の不公平さ」を漠然と非難するのではなく、自らの責任を認め、困難を受け入れようとする姿勢なのです。真の謙虚さとは、あからさまな抵抗と同じく、完全に受け身な状態であってもなりません。一時的な苦しみは自らが招いたものと理解し、その状態を受け入れることに限り、受動的なのです。それは、働き、克服し、闘い、全ての苦しみに対する自己責任を可能な限り直接的な方法で認識する意欲において、完全に能動的です。これは、能動的な流れと受動的な流れが調和した相互作用の良い例です。

 

 従って、内側から変わらずに、手をこまねいて物事が変わるのを待つことはできません。人生にどんな不幸が起こっても、皆さんにはそれを変える力があります。自らの行動だけを変えて表面的に変えようとするのでなければ、人生を完全に変える力があります。内的原因、誤った結論、要するにまずはイメージを探す場合に限り、人生を変えることが可能なのです。

 

 自分の中で何があらゆる苦しみをもたらしているのか理解しなければ、何も変えることはできません。それができて初めて、徐々に自らの感情を再教育し、イメージを解消し、神聖なる法則に則った新しい生産的な形を魂に創り出すことができます。しかし、この素晴らしい可能性が手軽にはやって来ないことを十分に理解せねばなりません。本当に自らを支配する為には、あらゆる努力をし、考え得るあらゆる犠牲を払う価値があります。もしこれを進んで行なえば、助けは得られます。しかし、神が人生を変えてくれると期待してはなりません。神は皆さんに自由意志を与えたのですから、まずこれらの誤ったイメージが何かを見いだすのは皆さん次第です。次に、私が皆さんに与えた方法、助け、ガイダンスによって、そのイメージを変えることが可能になります。

 

 探究とそれに続く変化の間、依然として不完全な自分に腹を立てず、自ら生み出した不幸を受け入れるには正しい謙虚さが必要であり、精力的かつ積極的に自己認識の流れへと自ら向かわねばなりません。現時点で自分は不完全であることをあらゆる感情レベルで受け入れることを学ばなくてはなりません。

 

 友人の皆さん、これに関しては幾度となく述べてきましたが、はっきりさせておきたいのは、皆さんは全員、自らが誤りやすいことを意識的には知っていますが、感情ではそれに気づいていないことです。感情は、完璧でありたいと考えています。そして、自分にとって新しく思われる不完全さを発見すると、内面のあらゆるものが、その認識に反抗します。この反抗に数多くある症状のひとつは罪悪感です。内なる隠されたイメージ、つまり苦しみの原因や人生を通して繰り返されるあらゆるパターンの原因に近づくと、まず不快な感覚を与える内的誤解に直面することを予測する必要があります。罪悪感を持ちながらそれに出会っても、何の解決にもなりません。実際、罪悪感とは現時点で自分が置かれている状況の拒絶であり、ありのままの自分を受け入れようとしない姿勢であると認識してください。

 

 このワークに取り組むことに不快を感じたら、「私は何を感じているのか?」と自問してみましょう。多くの場合、感情的反応が罪悪感であることにも気づいていません。もし気づいていたとしても、罪悪感が本当は何を意味しているのか気づいていません。実際、それは謙虚さや悔悟と混同されることがよくあります。何が予測できるのかの知識、この健全な態度、自ら感情の分析は、あなたを大きな認識へと導くでしょう。

 

 感情を定式化してください。不快な反応は、その認識が実際に何であるかを自覚する前に起こることが多いことに注意してください。皆さん、この道におけるワークの主要部分は、感情を簡潔な思考へと定式化することです。このことはいくら強調しても足りません。感情の定式化によって、過ちを犯したことへの罪悪感を感じていることに気づくでしょう。そして更に、自問してください。「何故私は自分が誤りやすいこと、間違いを犯すこと、欠点があることに罪悪感を抱くのだろうか?」答えはこうでしょう。「今の自分以上になりたいから。もっと完璧になりたいから。より進化したいから。内なる何かが、私の無知や利己心、簡単な逃げ道を見つけたいという願いを受け入れない。」このようにして自らの反応を分析すれば、物事は非常に円滑に進むようになるでしょう。

 

 イメージの探索への更なるアドバイスがあります。この課題は困難です。皆さんの為にそれを簡単にしようとは思っていません。非常に素晴らしく完璧な宝物が容易に手に入ると聞けば、間違いなく不審に思うでしょう。しかし、皆さんの多くが既に見つけ出し、確認しているように、皆さんの努力は十分に報われます。少なくとも初期の段階を過ぎれば、この道を進む程に、素晴らしい力、大きな安心感を与えてくれるものは何もありません。

 

 まず内なる反応について膨大な量の孤立した情報を集めます。感情を脇へ押しやったり、覆い隠したりするのではなく、感情を表面に出し、簡潔な言葉にすることで、これまで気づかなかったことが見つかります。それは、あなたを驚かせるでしょう。暫くの間、この孤立した情報の断片は、結びつくことはないかもしれません。それらをどう扱って良いのか分からなくなります。そして、こう言いたくなるでしょう。「次はどうするんだ?違う動機を考えていたのに、実際にはこのように感じていたと発見したことは、どのように私の役に立つのだろう?」

 

 がっかりしてはいけません。むしろ、最初は意味をなさなくても、情報の断片を見つけることは非常に役に立ちます。探し続ければ、必要な助けを得られるでしょう。もう一度言いますが、このワークをひとりで出来る人はいません。不可能です。しかし、やる気のある人なら誰でも援助は得られ、チームとなれるようにこのグループの別なメンバーと引き合わせる方法が見つかるでしょう。

 

 ワークを続けると、すべての孤立した情報が繋がっていくことが分かります。自分の内に、連鎖反応や悪循環が見つかります。その循環が閉じるまで、ある反応は別の反応へと繋がり続けます。このような悪循環がいくつか見つかれば、それは大きな前進の一歩です。ゆっくりと、しかし確実に、自分自身と人生について理解し始めます。しかし、これでも十分とは言えません。あなたは単に剥き出しの構造、作業を続けやすくしてくれる全体計画を見つけたに過ぎません。詳細を教えてくれるワークはまだ始まっていません。この時点ではまだ、自分の人生や葛藤が何を意味するのか、そして自分がそれをどう引き起こしたのかを、自らの存在のあらゆるレベルで把握することはできないでしょう。ある程度は把握できても、全てではありません。

 

 友人の皆さんの中には、既にこの段階に達している人もいます。従ってここからは、どのように進んで行くべきかお話ししたいと思います。このテーマを初めて聞く人は、これから述べることを理解できないかもしれませんが、それでも魂に響く何かを受け取ることもあります。私の言葉が扉を少し広く開げ、新しい友人達も又、無意識の動機への依存から、自由な神の子としての独立へと敷居をまたぐことができるかもしれません。

 

 親愛なる皆さん、最初のアドバイスです。これらの悪循環を見つけたら、それに含まれる誤った結論を簡潔な言葉し、それを忘れないよう書き留めることです。そうすれば、この誤った結論が人生にどのような影響を及ぼしたかについて瞑想を始めることができます。皆さんは、イメージほどパワフルなものはないと知っています。非常に大切にしている意識的な願いに相反する願いがイメージの中にある場合、その意識的な願いがどんなに強くても、イメージの願いによって覆されることを知っています。そしてイメージに対応する状況に引き込まれます。イメージが人と状況を引寄せるのです。したがって、誤った結論を定式化する時、人生の問題の原因は何であったかを理解することは、それほど難しくない筈です。

 

 言うまでもなく、問題や葛藤をリストの形にして手元に置いておくべきです。まず、これらの葛藤すべてに共通する特徴を見つけてください。何が原因であり、どのようにして生じたかはまだ分かりません。それでも、これらの悪循環を見つけさらに深く探ることで、ひとつの共通の特徴が明らかになります。

 

 リストを作ると、おそらく一定の問題が繰り返し起こっていることに気づき、困惑するでしょう。様々な形を取ってはいても、常に繰り返されるパターンがあります。これが、イメージが関与していることを示す最初の兆候です。問題が一度しか生じなければ、必ずしもイメージとは関係ありません。しかし、それを判断には注意が必要です。意識的になった誤った結論が、どのように自らの様々な葛藤に影響を与え、引き起こしているのか明確に理解すべきです。共にワークしている友人の皆さん全員、慎重にこのプロセスに取り掛かるべきです。このようにして、イメージの破壊点は示されます。

 

 誤った結論がマインドの中で明確になり、それが人生にどのような影響を及ぼしてきたを理解したら、この時点では未だ理論的にのみですが、その循環と結論を正反対のものへと逆転させることを始めてください。勿論、感情は未だ正しい反応に従って生きることができないからです。しかし、誤った結論を感じて意識的にあらゆる感情を再体験することで誤った結論に向き合えば、何が正しい結論なのかに気づけます。毎日このことを瞑想すれば、最終的にはあなたの反応も変わるでしょう。

 

 考え方が変わるだけでは十分ではありません。そもそもイメージが何かを見つけるずっと前から、考え方は完全に正しかったかもしれません。重要なのは、感情が変わることです。誤った結論には常に自分の欠点がいくつか含まれています。そのいくつかに気づいてはいたかもしれませんが、それが自分のイメージにどのように関わっているかは自覚していませんでした。あなたのイメージには、欠点の核心が含まれているかもしれません。しかし、イメージを探す時に自分の欠点を探すべきではありません。無意識は道徳的な態度を好まないからです。現時点で、イメージの剥き出しの構造が意識的になったら、どの欠点がそれに一役買っているのかを理解すべきです。

 

 イメージの普遍的な要素のひとつは恐れです。特定の恐れが自らの欠点にどのように結びついているかを分析すると同様に、自らの無知が何処にあり、誤った結論にどう至るのかを理解すれば、イメージの解消に向けて、又大きな一歩を踏み出したことになります。

 

 イメージに適用される一般論がいくつかあります。ひとつは、人間は傷つくことを恐れ、自らの意志に反するものを恐れます。身勝手さとプライドがある為に存在し得るこの恐れの為に、人格はディフェンスを築きます。人は、ある種の態度を取り入れることで、痛み、苦しみ、失望といった人生における恐れが回避できると考えます。ディフェンスを築いても苦しみを避けることはできないだけでなく、実際に苦しみが悪化すると認識できない為、誤解や誤った結論が生じます。人格の未熟で子供っぽい側面である無知なローアセルフには、その防衛策は非常に優れて論理的だと感じられます。それでも、この角度から問題全体を見て、意識的にじっくりと考えてみれば、イメージを構築した時のディフェンス機能にいかに欠陥があったかに気づかずにはいられません。痛みを避けることができなかっただけではなく、長期的に見れば、このイメージがディフェンスを築かなかった場合よりもずっと大きな痛みがもたらされたのです。

 

 友人の皆さん、この段階まで来たら、この視点からイメージを見ることがとても重要です。自らに問いかけてください。「何故イメージを作ったのか?どんな理由で?何から自分を守りたかったのか?現実ではどうなったのか?この偽りの防衛手段、このイメージがなかったら、私の人生はどのように機能しただろう?」

 

 答えはいつも次の通りです。痛みを回避する鉄壁の策などありません。痛みを伴わずして人生を歩むことはできません。皆さん全員、このことを知っています。普通の人間は純粋ではない為、痛みはある程度避けられないものです。しかし、痛みを伴う人生を受け入れ、痛みを引き起こすものを理解するよう常に努力し、進んでその痛みと向き合えば、痛みは遥かに少なくなるだけではなく、避けられない痛みも半分以下になるでしょう。皆さん、このことを覚えておいてください。そしてこの角度から、自らの結論、ディフェンス機能、イメージを見てください。「私は何を避けようとしていたのか?それは、どれ位うまくいったのか?」

 

 次に、痛みについて少し違う角度から考えてみましょう。できるだけ俯瞰して、新鮮な気持ちで考えてみてください。痛みもまた相対的であることを認識するでしょう。痛みへの恐れは、常に痛みそのものより遥かに酷いのです。肉体的な痛みも同じです。抵抗したり筋肉が緊張したりすると、リラックスした状態よりも、切り傷は遥かに痛みます。自らの心や身体をそのようにコントロールして、痛みを感じることなく酷い怪我に耐えられる人々もいます。迫り来る痛みに抵抗せずに身を委ねて、受け入れることを学んだのです。彼らは非常に高次のリラックス状態に在り、通常なら酷く痛むであろうものに最早痛みを感じません。魂の痛みも全く同じです。これとは別に、自分自身と自らのイメージを理解していれば、問題や心配の多くは存在しなくなるでしょう。

 

 親愛なる友である皆さん、自分自身に責任があると気づくことがこのワークの重要なポイントです。この概念については、多くの誤解を生む可能性があります。まずは、自己責任の概念が神を排除していると考える人が多くいます。彼らは、人生を導く神は存在しており、苦しくてもじっと耐え忍ばなくてはならないと考えるか、無神論者になるかいずれかです。

 

 大事な皆さん、そのようなことは必要ありません。内なる誤りを見つけ出して罪悪感を感じる限り、自己責任は重荷となります。しかし一度、抵抗や怒りもなく、間違った種類の恥や罪悪感もなく、あらゆる点に関して自分自身でいる勇気を持って、今のありのままの自分を受け入れることによってこの誤りを乗り越えれば、自己責任が皆さんを解放してくれるでしょう。自らの内にある問題、心配、不満、不幸の原因となるものへの理解は、これまでのどんな防衛(偽りの安全)よりもあなたを強くしてくれます。この偽りの安全を他者との関係、観念、歪んだ神への概念、何に求めていたとしても違いはありません。自己の感情、イメージ、習慣的な内なる反応が変化できるようになるずっと前に、強さと自由はあなたに訪れます。それは、自分自身の原因と結果を完全に理解した瞬間にやって来るのです。

 

 親愛なる皆さん、このことには自己責任が極めて重要です。自ら招いた自由の欠如に対して抵抗しているにも関わらず、何らかの形でそれを避けたいと思わない人は殆どいません。何故、どのように、より楽に見える生き方を選ぶ為に自己責任を放棄し、自らの自由を狭めてきたのかを見つけ出すことによってのみ、この葛藤は解決できます。

 

 人生に責任を持つことへの反応は個人によって異なります。誰もが、異なる関係において異なる相互作用をする様々な流れ、欠点、資質によって成立しています。その為、同じ基本的な理由があったとしても、ある人は別の人とは全く異なる反応をするかもしれません。しかし、どちらも自己責任から逃れたいという願いが動機となります。内なる人生において自己責任から逃げようとすればする程、更に捕らわれることになります。この連鎖の中で足掻いて、不当だと感じて世界に反発し、自己憐憫に浸りながらも、鎖を断ち切ろうとしないのです。

 

 自由への第一歩は、自分がどのように、何処で、何故、この依存を自分自身に与えたのかを認識することです。内なる動機を理解し、その動機が避けたいと思っていた以上の苦しみを実際にもたらしていることを理解すれば、あなたは解放されます。ですから暫くの間、今示した角度からイメージ探しに取り組んでください。

 

  1. 自己責任: (a) 自ら苦しみを引き起こしている所を見つけ出し、(b) それが出来るだけ変化できるよう、どのようなものかを見つけます。

 

  1. 傷つくことを恐れている自分に気づいてください。それが、あらゆる不幸の原因であることを理解してください。この過剰な恐れが、死を恐れるあまりに自殺する人のような振る舞いをさせるのです。友人たちよ、皆さんは自らのイメージでそのようなことをしています。傷つくことを恐れるあまり、皆さんは、防御せねば降りかかると想像する痛み以上の不必要な痛みを生じる形を魂の中に創り出します。

 

 友よ、痛みは受け入れなくてはなりません。何故なら、それは神が与えたものではなく、自分が自分に与えたものだからです。しかし、そのことが、自分自身や、その状態を生み出した賢明なる法則に反旗を翻すことに繋がってはなりません。自分は不完全であること、その不完全さの程度に応じて苦しむことを受け入れる必要があります。浄化に向けて努力をすればする程、苦しみは軽減されます。他の条件としては、一夜にして起こる奇跡を期待しないことです。この段階にいる限り、痛みに向き合い、受け入れることから学ぶのだと理解してください。よりリラックスして自分自身や自らの苦しみを捉え、原因を見つけ出し、それを取り除くことができれば、より迅速に苦しみを乗り越えられます。そうすれば、痛みに対して適切な態度が取れるでしょう。痛みを受け入れること。これがマゾキズムや身がすくむような抵抗の両方を避ける唯一の健全な方法です。そして、痛みを受け入れることでのみ、ようやく痛みが終わるのです。痛みを完全に受け入れる時、あなたはそれを通り抜けることになります。通り抜けることによってのみ、それを超えることができます。この世界の偉大な哲学者達は皆、痛みと喜びは絶対的なものにおいてひとつになると教えています。私は、その状態に至る方法を示しているのです。

 

 痛みを避けることでは、喜びを得ることはできません。しかし、どのようにして自らが痛みを生み出したのかを十分に理解し、その痛みを通り抜ければ、喜びが得られるのは確かです。誤解を避ける為にもう一度強調します。痛みを受入れたとしても、この浄化の道において痛みを避ける力を否定するものではありません。全く逆です。しかし、痛みに表面的に対処することは不可能なのです。痛みは、魂の奥にまで入り込む、懸命で忍耐強いワークを求めます。このワークは、皆さんの最善を要求します。何故なら、それが人生の最善を受け取る唯一の方法だからです。

 

 それでは、親愛なる友人達、質問をどうぞ。

 

 質問:あなたは、病気の原因は自らの内にあると何度も言いました。このテーマについて瞑想していますが理解できません。例えば、骨の奇形のような…

 

 回答:カルマの病気とそうではない病気とは区別せねばなりません。これは肉体的な病気のみならず、人生におけるあらゆる困難に当てはまります。霊的に話せば、困難とは常に病気と言えます。因果関係の細かい仕組みは、カルマにおいても、ひとつの人生においても、同じように機能します。どちらの場合も、否定的な原因を取り除くのはあなた次第なのです。

 

 しかし、今生では克服できない困難もあります。ただ耐えねばならないというような。それは、原因を取り除くことができないという意味ではありません。原因を取り除くことは、いつかは為されなければなりませんが、いずれにせよ、原因からの結果は担われねばなりません。

 

 その他、カルマ以外から来る結果は取り除くことができます。カルマの負債は、単発の出来事として現れます。取り除ける結果は、大抵の場合、一定のパターンで絶え間なく繰り返されます。厳密に言えば、その原因は前世に起因するものではないからカルマ以外だという話でもありません。しかし、あなたは今生で出発点を見つけ、このワークを通して人生を変え、葛藤を取り除くことができます。更に、皆さんはそのことを知る必要さえありません。どんな悪影響もいずれにせよ自ら解消せねばならないので実際には全く同じであり、カルマ的な借りであるのか、前生から持ち込んだ種が今生で芽を出したことが原因になったのかに関わらず、同じ精神で自己浄化に取り組む必要があります。

 

 特定の状態がカルマ起因であるという確信的な知識は、原因が何であろうと、必要なワークを行うことに対して、あなたを怠惰にするだけでしょう。

 

 友人の皆さんの中で、変えられないカルマ的な境遇にある人は殆どいないと断言できます。この部屋には大勢の人がいますが、誰一人として完全に幸せな人はいません。意識的な「これの代わりにあれが欲しい」といった顕著な変化ではなかったとしても、何らかの変化をも望まない人は誰ひとりいないでしょう。おそらく、不幸、不安、不調和、恐れ、不安、孤独、切望を感じているかもしれません。この言葉を読む人々を含めた皆さんは全員、変えようと思えば変えられる力を持っています。皆さんの無意識で未熟な性質が、努力のない変化を望むような理不尽なものでなければ、もっと遠くに進んでいたことでしょう。

 

 この入口で未だ葛藤している全ての人々への助言です。以下のように、自らに問いかけてください。「私が本当に欲しいものは何だろう?私の疑念や優柔不断は、一体何を意味しているのだろうか?不幸に抵抗し、変化を望んでいるにも関わらず、それを自らに与えようとはしないということなのか?」このような抵抗がある人は皆、この問いを立てるべきです。

 

 これに答えられれば、最初の勝利を獲得したことになります。何故なら、その時あなたは、心の中にどんな理不尽で幼稚な一面が生きているのかに気づきます。それこそ、実際に望んでいるものなのです。そうです、友人の皆さん。それが、皆さんが望むことです。皆さんの為にワークが済まされており、天国の愛する神が変化を与えてくれるということです。

 

 質問:私の生徒の一人が尋ねたのですが、一般知識、科学、宇宙、顕在している世界についての知識と、感情的な自己認識の内、より重要なものはどちらですか?明らかに、感情的な自己認識がより重要ですが、何らかの形で科学を軽視する霊的な生き方を志す人々に言いたいことはありますか?彼らは、霊的成長だけが、顕在の世界の認識と一体化しないままで、最高の善をもたらすと主張します。

 

 回答:主に霊的成長に集中することに呼びかけられ、そうすることで使命を果たす人々は多くいます。それについては疑いの余地はありません。確かに、これは全ての人間にとって非常に重要なことです。しかし、自分の使命を他者に転嫁したり、一般的な原則にしたりするのは間違いです。

 

 普遍的な力の展開は、多種多様で変化に富んでいます。何も制限してはいけません。多くの場合、ある人は芸術、ある人は科学に、といったように様々な役割があります。ワンネスは、最終的に創造を通したこのような多様性から生じる違いありません。理想的なケースは、科学者、芸術家、最終的なワンネスに貢献する者が皆、特定の才能や役割に取り組むのと同時に、自らの霊的成長を続けることです。これは確かに実行可能です。実際、浄化と自己啓発が結びつけば、仕事の質や創造性は何倍にも高まります。しかし、まだそこまで進歩していない才能のある人が多くいます。彼らはある方向での素晴らしい才能で、最終的には霊的な力の展開に貢献するかもしれません。すぐにその繋がりが常にすぐ発見されるとは限りませんが。一時的に科学がどれだけ濫用されようとも、回り道をしながら科学の進歩は自己認識と同じ霊的現実をもたらす筈です。それ故、全員に自らの傾向を主張するのは間違っています。

 

 ある人は霊的成長と科学を結びつけ、ある人は芸術と結びつけ、ある人は台所や自然の中で結びつけるというように。ずっと後の段階で、これらは全てひとつとなります。しかし、まず自分自身とひとつでなければ、このワンネスは決して達成できません。

 

 「ひとつになる」という表現をよく耳にするでしょう。実践において、どのようにそのようになれるでしょう?イメージを探すワークによってです。自分のイメージを見つけると、今どれだけ「ひとつ」でないか、ずっと簡単に理解できます。そうすれば、自らの為に考え出した合理化によって、どれだけあなたの知性や意識の層が、自らの良い動機を納得させられているのかが分かります。しかし、より深く掘り下げると、自らの反応や願望は、全く異なる方向を向いていることに気づくでしょう。つまり、皆さんはいくつかの点で分裂してい流のです。

 

 このワークでしかできないことですが、自らの内でひとつになれないのであれば、後になってからも、全ての神聖なる顕現の中でどうしてひとつになり得るでしょう?まず最初にすべきことがあります。

 

 今、この部屋にはいくつかの思考が起こっています。「なぜこの方法でしか浄化できないのか?イメージについて何も知らない人々も、同じように成長している。」友よ、その通りです。しかし、究極的には常にここに戻ります。歴史上どの時代でも、地球上のどこに住んでいようとも、どんな名前で呼ばれていようと、考え方は常に同じです。つまり、どのようにして無意識の内で、意識的なマインドから逸脱するのかを見つけ出すことです。

 

 今この素晴らしい機会を利用しない人は、後日このワークから逃れられません。もっとも、スピリットの世界でも同じような浄化を行うことは可能です。また、その存在が人生に教えられることで徐々に解消されるまで、同じイメージで転生に次ぐ転生を繰り返すことも可能です。しかし、このワークに意欲的に取り組むことで、どれだけ自分が救われるのかを考えてください。自らのイメージのいくつかを理解した人だけが、学ばねばならないことを学ぶまでどれだけかかったであろうことか、そしてこの探求で何が学べるのかを感じとることができます。

 

 皆さんは常に過去の転生を知ることばかりに気を取られています。瞑想して、未来について考える方が、もっと役に立つでしょう。自らのイメージを知り、見つけ、本当に理解することで、この素晴らしい機会を利用しなければ、未来の転生がどうなり得るのかを良く理解できます。

 

 質問:健在的な知識をほとんど持たなくても、最高の領域に達することができる人間はいるのでしょうか?

 

 回答:勿論です!成長を助け役に立たない限り、博識であることは自己認識と何の関係もありません。博識になること自体が目的ならば、霊的発達が進むことはありません。勿論、この道では一般的な知性を必要としますが、それは全く別のことです。博識であることは、時として利点ではなく障害となります。ごまかしや合理化、更には逃避として使われるかもしれません。

 

 質問:また、博識はモナド(哲学用語:単子)に留まりません。言い換えると、続かない可能性があります。それは本当ですか?

 

 回答:その通りです。表面的なものは何であっても続きません。あなたの存在のより深くに届くものだけが残ります。だからこそ、良くあることですが、それがより高い倫理観に従っている場合には、表面的で外的な知識を自分の感情と統合することがとても重要なのです。

 

 これがこの道の要点です。皆さんが死ぬ時には、肉体が崩壊するだけではなく、その後に外側のサトルボディーも崩壊することはご存知ですね。そのどちらも、真の人格を構成するものではありません。これらの外側の層は、この地球上での役割を果たす為に必要で、それは内側の人格を引き出すものでなくてはなりません。内側のサトルボディーは残ります。これがまさに、自らの感情を掘り進めることで到達する層なのです。

 

 実体はある程度の知識と共に生まれ変わるかもしれません。現在の環境が、更なる知識を与えてくれるかもしれません。それをどうするかは皆さん次第です。表面的なレベルで使いますか?その場合、外側の神秘体が崩壊すると、この知識は失われます。しかし、成長の目的で、この新しい外的な知識と真の自己を統合する為に使えば、あなたがこの環境で吸収する機会に恵まれた知識は、唯一価値のある用途を果たしたことになります。

 

 ここに集う私の親愛なる人間の兄弟姉妹達の皆さん、皆さんに降り注ぐこの神聖なる祝福の流れを受け取り、吸収してください。外に出て、牢獄の壁を破ることができるよう、この祝福が皆さんを強めるがままにしてください。進んでそれを行い、それから神の元に向かってください。しかし、神が皆さんの代わりにそれを行ってくれると期待しないように。神は愛と救いの光を示します。この探求に「はい」と答えた人は、勇敢で気高い人です。更に多くの親愛なる友人達が、この敷居をくぐり、暗いトンネルを後にすることができますように。愛の喜びに満ちた祝福が皆さんを包み込み、浸透しますように。親愛なるものよ、平和の内に。神の内にありなさい。

 

 

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