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 無料公開ガイドレクチャー(日本語版)

 

Pathwork Guide Lecture No. 42

1996年版

1958年12月19日

 

 

クリスマスの祝福「客観性と主観性」

CHRISTMAS BLESSINGS -- OBJECTIVITY AND SUBJECTIVITY 

 

 

  神とイエス・キリストの名においてご挨拶申し上げます。親愛なる皆さん、今夜は特別な祝福をお届けします。一年のこの時期、宇宙の王から強い愛のフォース(力)が、あらゆる領域に届けられます。オープンで穏やかな調和がとれている人は誰でも、身体、魂、スピリットを祝福であるこのフォースを受け取ることができます。

 

  しかし、多くの場合、このフォースが魂に浸透するのは非常に困難です。あなたから発せられるものと調和しなければ、その黄金の光線は跳ね返されてしまうに違いありません。憤り、怒り、傷つく度に、あなたはその力に対して自己を閉ざします。殆どの場合、これらの感情は余計なものであり、根拠のないものです。これらの感情がまるで存在しないかのように脇へ押しやるのではなく、むしろ表に出し、自分の何処にその根があり、自分と祝福のフォースの間の壁を何処に作ってしまったのか示すよう神に、キリストに示してもらうように頼むことが治療薬だと皆さんはご存知です。祝福の力は、永続的な効果をもって、皆さんを再生させようと待っています。親愛なる皆さん、それが流れ込むがままにしてください。兄弟姉妹に腹を立てているなら、自分と相手を理解するように努めなさい。自分よりも相手に対して厳しくならないように。残念ながら、いくら頑張ってもそれは起こります。この素晴らしい霊的な滋養にあずかれるよう、愛、理解、許しを深めるよう努めなさい。そうすれば、それはハートと魂の全粒子を満し、そこから全ての不純物を永遠に浄化することができます。

 

  霊界にいる私たちは、このグループに特に満足しています。皆さんの殆どは、真剣に努力をしてきました。皆さんの努力は実を結んでいますが、自らのワークの価値を常に完全に理解できるとは限りません。しかし、皆さんの中では理解し、あるいは理解し始めた人もいます。ほんの少し前まで、怒りや憤りを感じていたような瞬間に、より大きな調和を感じ始めています。そのような感情を抱いたとしても、今では前より強くも、頻繁にも起らないという人も多いでしょう。進歩は直球ではありません。不調和を感じないよう強制しても進歩しませんが、内在する葛藤の根源へ向かうことはできます。それこそが、健全に距離を置く方法であり、愛や兄弟姉妹への理解以外の影響を受けなくなるまで、これは増え続けます。そうすれば、自らの欠点に目をつぶることなく向き合い、最早それがあなたにネガティブな影響を及ぼすことはなくなるでしょう。

 

  私の今夜のメッセージは、この方向で取り組んでこられた皆さんひとりひとりにお伝えしたい。何としても続けてください!最初は困難であっても、前に進んでください!良きフォース、キリストの強い黄金の光は、このフォースが宇宙で最も強くなる特別な季節だけでなく、常により一層、皆さんを満たすのです。ゴールに到達するまで、皆さんを祝福しようと待っているものを受け入れられるよう、自らの不調和を見破る努力を続けてください。心から努力すれば、大きな助けを受け取れるでしょう。

 

  霊界にいる皆さんの愛する人々の多くが、今夜ここへの道を見つけています。彼らはここに導かれたのです。彼らは耳を傾け、見ています。親愛なる皆さん、皆さんも耳を傾けることはできますが、このような機会にスピリット達が見ることを許されているものを見ることはできません。このレクチャーの間、この力(フォース)はコミュニケーションを確立する領域を構築します。スピリット達は、黄金の光と美、見たこともないような輝きの調和を見ます。これは神の世界からのクリスマスの贈り物です。スピリットの見方とその視野の意義は、人間のものとは異なります。美しい風景や美しく見えるものを見た時、それを注視するのは素晴らしいかもしれませんが、それはあなたの人格、マインドの状態、内なる平和や調和とは関係がありません。ところが、スピリットが美しさを見ると、それが世界であり、存在の状態であり、この教えに従って生きればそれは自らのものになると気づきます。そのような世界がここにあり、皆さんの周り、皆さんの中にあると心に描き、想像してみてください。霊的な世界では、聞くものを見ることができ、見るものを聞くことができるのです。

 

  親愛なる皆さん、イエス・キリストは自ら自由に選んだ運命を十分に知って、十字架の上で亡くなりました。彼の生と死は、彼の意志と願いがもたらしたものです。ある出来事がカルマの問題、原因と結果から起こるような人間と違い、イエス・キリストを襲ったのは運命ではありませんでした。彼はそれが必要だと認めたからこそ、その人生とその死を選んだのです。それは、最も偉大な愛の行為でした。

 

  救済の計画については皆さん知っていますね。それに関しては詳細に説明しました。親愛なる皆さん、イエス・キリストの行為を史上最大の勇気ある行為として考えたことはありますか?人間にとって、避けられない運命をポジティブに建設的な自己探求の精神で、謙虚な受け入れの態度で体験することは、既に勇気ある行為です。それも愛が故に、そのような運命を選ぶことが、どれ程までに勇気ある行為かは説明するまでもありません。真の愛、真の優しさ、真の無私は、勇気なくしては考えられません。親愛なる皆さん、勇気の意味を瞑想してください。勇気が足りないとしたら、それは不健全な方法で自分を愛し過ぎているからです。

 

  正しく適切な自己愛というのもあります。臆病とは、自分を甘やかし自分を憐れむ、自己満足以外の何物でもありません。勇気は、大義や問題、また他者も自分と同じく重要視します。従って、最終的には、勇気と愛は切り離せないものなのです。大事な皆さん、そのことを考えてください。キリストの生と死を深く理解するだけではなく、自分をより深く理解し、評価することができるようになるでしょう。つまり、浄化のプロセスがより上手くいくということです。これまでのワークを踏まえれば、自分の何処に勇気があり、何処に勇気が欠けているのか理解するのは難しくはない筈です。そして、勇気が欠けているところには、必ず愛も欠けていることに気づくでしょう。

 

  さて、過去に時折触れたテーマ、客観性についてお話しします。自由で調和のとれた人間にとって、客観性は不可欠なものです。浄化されておらず、不調和であればある程、客観性は失われます。客観性は真実を意味します。主観性はとは、色づけされた真実、せいぜい半分の真実、多くの場合は完全な真実ではないことを意味します。意識的な嘘とは逆に、主観性は無意識の、または意図しない真実をもたらします。これは全て、人間の感情レベルから生じます。浄化のワークを行う時には、まず魂の奥深くに存在する真実ではないものを発見します。その真実ではないものを追い払った後、自らの内に真実を植え付けることができます。厳しい自己探求の道だけが、そのような発見とそれに伴う変化を可能にします。しかし、このプロセスや特に自分自身を全体として見る為のこの新たな角度は、あなたが更に一歩前進するのに役立つでしょう。

 

  最初に、他者の重大な欠点として見られるものは、自らの中では見えないことが多いという現象を取り上げましょう。その欠点が全く同じであるか、僅かに異なり変形したものであるかに違いはありません。他者の欠点に対しるあなたの異議は正しいことかもしれません。しかし、他者を判断ながら、自分も同じように正しく適切なことから逸脱しているのに気づかないのであれば、それは半分の真実にしかなりません。更に、他者の欠点は、自分にはない良い資質と共存しているかもしれません。こうして、あなたの判断は色づけされます。腹立たしい一点に集中して異議を唱える一方、全体像を完成させる多くの他の側面を見ようとしないからです。従って、親愛なる友人達よ、他者の欠点に腹を立てる度に以下のように自問してください。「もしかしたら私にも別の形で似たような欠点があるのではないか?私が厳しく非難している相手には、私にはない良い資質があるのではないか?」そして、相手は持っていて、自分には欠けている良い資質について考えてください。また、自分が非難し怒っている相手にはない欠点を自分が持っていないかを自問することも忘れないでください。そうすれば、他者の欠点への怒りをより客観的に評価できるようになります。偶然にもその評価の結果」、自分の欠点は相手より遥かに少なく、自分の資質が相手よりも遥かに優れていることが判明したら、それが忍耐と理解を育むより大きな理由となります。それが意味することは、あなたがより高次の成長段階にあり、それは何よりも、理解と許しの義務があるということです。この能力が欠けているならば、あらゆる優れた資質も、欠点がより少ないことも、何の意味もなしません!しかし、その方向に真剣に努力をするならば、神は、あなたが更に客観的になれるよう助けてくださいます。そうすれば、間違いなくより一層の安らぎが得られるでしょう。そして、今あなたをとても悩ませているものに、動揺させられることはなくなります。

 

  他者の欠点に腹を立てる時はいつも、適切ではない何かが内側にあるに違いありません。友人の皆さんはそのことを知りながら、自分自身を調べる機会が来る度に、何度も何度も忘れるのです。繰り返しますが、もし本当に自らの内にあるものを見つけたいと望めば、神は助けてくださいます!明らかに相手が間違っており、自分よりもずっと間違っているかもしれないことは、気にすべきではありません。自分の中にある小さな不完全さの粒を見つけるようにしなさい。相手が持つ不完全さの山に集中せずに。あなたから平安を奪っているのは、偽りというあなた自身の不健全な粒であり、決して他者の中にある山ではないのです!

 

  非常に異なる方法で現れるが、同じ根から生じる極端な主観性の形があります。多くの人間は、自分を愛してくれない、批判されている、あるいは少なくとも不安を感じさせられる相手に対して、非常に厳しくなります。その厳しさはディフェンスです。自らの価値に安心していれば、不安を感じることなく、自然と寛容さを育てられます。しかし、皆さんの殆どは、未だに不安なので、このように欠陥のあるディフェンスの手段を用います。この振る舞いは、あなたが安心できるように愛してくれる人を盲目的に理想化するのと同じことです。この場合、他の誰かに対して非常に激しく反対するような様子はありません。親愛なる皆さん、これもまた危険です。この傾向は特に、その理想化が愛であり忍耐であると自分の都合の良いよう信じ込むのに非常に適しているからです。彼らが愛してくれているからと、あなたが愛する人々の欠点に目を瞑る時、あなたは自らを忍耐強く良い人であると納得しようとします。いいえ、皆さん。それは本当の愛ではありません。真の愛は現実を見ることができます。非常に大事な成熟した方法で愛する準備ができれば、愛する人の欠点に目を瞑るのではなく、しっかりと向き合うことでしょう。

 

  頑なに目を瞑っているとしたら、それにはふたつの理由があります。理由のひとつはプライドです。愛する人として選んだ相手と、あなたを愛する人として選んだ相手には、あなたが許容できないと考える欠点があってはなりません。弱さのない人間はいないと知っているので、自らの欠点のいくつかを認めるように、相手の欠点のいくつかを認めるかもしれません。しかし、相手の多くの傾向を無視し続け、その態度を自らの愛と忍耐の証明であると半意識的に考えていますが、実は、それはプライドから生じています。ふたつ目の理由は、心の奥底で、自らの愛する能力への不安があり、愛する相手の理想的な姿を必要としているからです。理想化された形でその人を見ざるを得ないのであれば、その愛は真の愛ではありません。違います。それは弱さであり、しばしば束縛にもなります。

 

  親愛なる皆さん、真の愛は自由です。それは、相手の成長のこの瞬間に優勢である真実の試練に耐えることができます。その段階に達すると、あなたが心から大事に想う人を、あなたの望む姿ではなく、ありのままに見ることができるようになります。相手の真の姿から目を背けている限り、愛することはできません。実際に、かなり表面的な潜在意識レベルではあっても、あなたは自らの愛する能力の欠如を自覚しており、真実を見たら愛し続けることができなくなるのではないかと恐れ、常にせっせと目を背け続けます。プライドと、真に愛することができない現時点の状態が、あなたを極端から対極へと向かわせます。親しく大事な人のありのままの姿を見ることを拒否するか、そうでなければ、批判自体は正当かもしれないのに、厳し過ぎる判断を下します。異議を唱えている個別の事実は妥当かもしれませんが、知る由もない程の数多くの側面をもつその人全体を評価することはできません。

 

  愛する人の欠点に目を瞑っていると、危機が、揺り戻しが、深く傷つくような痛みを伴う目覚めが避けられないことも良くあります。実際には、あなたを失望させ、傷つけたのは相手ではなく、自らの過去における故意の盲目なのです。そのような危機に、あなたが心の底で最も恨むのは、その盲目さです。親愛なる皆さん、そのような危機を避けてください。他者のありのままの姿を見て愛することを学べば、それは可能なのです。

 

  友人の皆さんに、次のようなアドバイスをしたいと思います。世界で一番愛している人のことを思い浮かべ、いつも自分に対してやるように、その人の長所と短所のリストを作ってください。次に、共通の友人に尋ねてください。「どう思うか教えてください。私の見方は正しいですか?自分が客観的なのか確認する為に、この人の長所と短所について、あなたが同じように見ているかどうか、意見を聞かせてもらいたいのです。私の成長の為に、お願いしています。」その友人達もこの道を歩んでいれば、まさにうってつけです。それから、より客観的で距離感がある状態の友人とあなた自身が、その同じ人物をどのように見ているのか比較しましょう。

 

  理想化している人に対して考えたこともない、あるいは考えようともしていなかった欠点について聞かされた時の反応を観察してください。内側で怒ったり傷ついたりしているのならば、客観的ではなく、真実を恐れている証拠です。おそらく先に述べたふたつの理由が原因です。つまり、プライドがあり、あるがままの相手を愛することができないからです。そうでなければ、たとえ最愛の人が持ってもいない欠点で非難されても、冷静でいられる筈です。友人の皆さんの内の何人かの方々にとっては、愛する人の欠点を考えることは、ごく健全なことかもしれません。愛する人を評価することを学び、あなたの愛は成熟し、大きく成長するでしょう。そうして、真実が見えずに怯えた子供のように愛する未熟な状態から成長することができます。

 

  前回のレクチャーでは、イメージの中に存在し続ける子供っぽいメンタリティーについてお話ししました。子供は、善か悪か、完全か不完全か、安全を約束する全能性か、避けるべき完全な脆弱性か、という両極端しか知りません。子供は、これらの選択肢のうち前者の方しか受け入れることができません。慕っていた親に欠点があり、全能でないことが分かると、その親から背を向け嫌悪感や怒りを抱き、失望と落胆を感じるか、あるいは、親の中にあるまじきものを見たことに罪悪感を感じてその発見を無意識の中へ隠します。このような反応は大人になっても魂の中に生き続け、生涯を通して、または成熟した判断と現実に照らして見直され再評価されるまで、反応や行動パターンに影響を与え続けます。この観点から現在の人間関係を見ると、そのプロセスは、始めの内は辛いものですが、無意識の抵抗が信じ込ませようとする半分も悪いものではありません。その抵抗に耳を貸さないでください。真実の探求を続けてください。より幸せで、より自由で、より安全な人間に進化できるとお約束できます。親愛なる皆さん、これが皆さんの多くにとっての唯一の治療法なのです。

 

  お願いですから、愛する人の欠点は見えている等と軽々しく言わないでください。勿論、一部の欠点は理解しているかもしれませんが、恐らくそれは、あなたが許容できるものだけで、他の欠点を見ることを自らに許していないかもしれません。従って、あなたは相手の人格の全体像を掴めません。あなたが見ている絵は、厳し過ぎて不寛容な時と同じように歪んでいます。どちらの場合も、現実を映していない鏡なのです。それぞれの鏡は、異なる形で歪んでいます。真実に近づくことを恐れるのは、愛する人の中にある不愉快な真実を見ることに耐えられないという子供の感情が依然として生きており、この感情が愛の出し惜しみをするからです。しかし、これは全く真実ではありません。愛は弱まるどころか、成長し、成熟するに違いないという認識と共に、この特別な探求に取り組めば、現実を知ることへの抵抗は克服できます。

 

  主観性の両極端の内、最初に取り組むべき重要な方がどちらかを知る必要があります。皆さんは誰でもこの両極を持っていますが、常にどちらかが優勢です。まずはそのひとつに集中することから始めましょう。

 

  皆さん、客観性にも勇気が必要です。あなた方の多くは、自分自身だけでなく、他者の真実を見るにはまだ弱く、臆病過ぎます。成熟した愛とは、相手の欠点にも関わらず、相手を愛することです。目を瞑るのではなく、相手の欠点を知り、理解した上で、既に有る良い資質の上に関係性を築くことです。知性の成熟と共にいくらか和らいだかもしれませんが、未熟な愛とは、相手を絶対的な二者択一の観点から見ることです。ここで、皆さんは、自らの個人的な基準や概念を犯さない程度の欠点は認められるようになるかもしれません。

 

  全ての人間が同じ発達レベルにあるかのように、人を厳しく判断するのは、同様に未熟なことです。相手の方が、その発達があなたより遅れている場合もあるし、別の点であなたより発達している場合もあります。従って、比較や判断はできません。ただ見てください!怒らずに見ることができないのであれば、その反応は正反対の極端な反応と同じ原因、つまり不完全さを受け入れられずに、感情的には未だ子供であることから生じているのだと気づく必要があります。

 

  ですから、この点でもキリストの足跡をたどりなさい。未だ愛する能力に欠けているが故に、エゴの為、虚栄心の為、プライドの為に構築した幻想を十字架にかけなさい。この真実の上に、あなたは真の愛を築くことができるのです。

 

  さあ、大事な皆さん、質問に移りましょう。

 

  質問:黙って静かに祈ることで十分ですか?それとも、定形句や文言で声に出して祈る方がより効果がありますか?

 

  回答:言葉が簡潔に考えられていれば、勿論、無言の祈りには同じような効果があります。間違いありません。思考も話し言葉も同様に形だからです。実際、話し言葉が軽い表現され、感情や意味のインパクトがない場合、そのパワーや効果は遥かに低くなります。その結果、熟考し深く理解した言葉よりも遥かに弱くなります。しかし、グループの集まりにおいて、人前で祈りにくいと感じているのであれば、それはブロックなので調べる必要があります。ブロックとはどういうことでしょう?多くの場合、それはプライドです。きっと、皆さんの中にはこれを不思議に思う人がいるかもしれません。人前で祈れないのは謙虚だからだと、見事に言い逃れているかもしれないからです。それでもやはり、友人の前で祈りを口にするのがなぜそれほど恥ずかしいのか、自分の感情を分析すると、その恥ずかしさは屈辱感から来ていることに気づくでしょう。

 

  神に祈る時は、ごく自然に謙虚な気持ちになります。他人の前でそのような謙虚な姿を見せることが、自分が屈辱を受けたかのように感じられます。謙虚であることは、感情の一部が避けたいことなのです。他者の前では、安心し、世界の頂点にいる様に見せたいと思います。神に対して見せるように、ありのままの自分、手探りで、不安で、不確かな自らの姿を他者に見せたくはありません。言い換えれば、神に見せるような本当の顔を見せることは、自らを辱めているような印象を持つのです。それがプライドです。真に謙虚な人は、ありのままの姿を見せることを恐れません。自分自身でいることの勇気を持っています。従って、人前で祈りづらいというこの小さな症状の中に、感情の状態の非常に重要な要因があるので、それを調べる必要があります。人前で心から祈ることができないのであれば、それこそ克服すべきことなのです。無理にそうするのではなく、自らの心理的な反応を調べ、現在の自らの真実の光に照らして評価するのです。常に望ましいのは、内外の両側面から目標にアプローチすることです。

 

  質問:恥ずかしい(シャイ)ということはありませんか?

 

  回答:数多くの説明をして、感情を正当化して覆い隠すことはできます。ところで、恥ずかしさとは何でしょう?更に言えば、劣等感とは何でしょう?それは一種のプライドに他なりません。他者にどう見られるかを恐れるあまり、自分の与える印象を非常に気にする人にはプライドがあります。あるいは、虚栄心が強いとも言えます。どちらも同じことです。恥ずかしさは、劣等感の現れのひとつです。厚かましさはまた別です。これは個人の気質と性格の問題です。あらゆる劣等感には、プライドと身勝手さという共通点があります。身勝手さは、プライドを満たすことを強く切望するあまり、感じている以上に安心しているかのように行動することで自らを偽ります。そうでなければ、身勝手さの強さのせいで、無力化して恥ずかしがります。プライドと身勝手さのあるところには、恐れもある筈です。他者がどう考えるかを全く気にせず、今の自分に正直に自分の中でしっかり安心しており、自分自身でいる勇気があるなら、どんな恐れもあなたに触れることはできません。あなたは無意識の内に、外側の見せかけの行為とは違う自分を他者に見抜かれることを恐れているのです。自らのプライドや身勝手さが満たされないことを恐れています。そうでなければ劣等感も存在せず、恥ずかしがることもないでしょう。劣等感とは、実際の価値や評価によって決めるものではありません。劣等感が存在するのは、ただ自分以上の存在になりたいと思うからに他なりません。私の友人の皆さんが、その観点から自分の劣等感を検証すれば、恐れや不安からの解放へ向けて大きく前進することでしょう。

 

  質問:食用に屠殺された動物は、死んだペットと同じ領域に行くのですか?

 

  回答:どういう理由で死んだのかは関係ありません。人間の場合と同じです。霊的な世界に来る人間の領域は、魂がどのような死を遂げたかで決められるのではありません。それぞれの存在の成長と達成に応じて、領域が決められます。

 

  質問:動物が死んでから目覚めるのは、どのような感じなのか教えてもらえますか?どのように目を覚ますのですか?あなたが言った「グループソウル」がよく分かりません。グループソウルとは、どのようなものですか?

 

  回答:グループソウルについては、人間が完全なスピリットの片割れであるように、動物も魂全体の粒子のひとつであるという意味から理解されるべきです。「ダブル」と呼ばれる残りの半分は、転生しているかもしれないし、転生していないかもしれません。動物の場合、分裂は更に進みます。ひとつの存在全体は、様々な存在形態に転生する多くの粒子で成り立っています。発達が低ければ低い程、分裂は更に進みます。これらの分裂された粒子の成長に伴い、それらは統合され全体の形となります。

 

  動物の目覚めのプロセスは、人間のものと非常に似ています。病気や、突然の事故でショック状態に陥った場合の重症度に応じて、休息や無意識状態の期間が長くなったり短くなったりします。肉体から抜け出した瞬間に、目覚めて自由になることもあります。幸福感があり、軽さを感じます。生まれ変わる前に、暫くの間、動物の領域で暮らすこともあります。かつての飼い主を訪ねることもあります。いずれにせよ、地上で生きていた時よりも遥かに幸せなのです。動物に関しても、一般化はできません。それぞれのケースで多少異なりますが、全ての動物は大切にケアされます。動物の世話を仕事としているスピリットがいます。

 

  質問:先ほど述べられた劣等感に関して、あなたは以前に違う説明をしていました。どのような関連性があるのでしょう。きっと繋がりがある筈だと思うのですが。劣等感は実際には罪悪感であり、自らの欠点に対する間違った反応だということでした。

 

  回答:まさにその通りです。このように繋がります。欠点であるプライドがある時、罪悪感を抱くのは自然なことではありませんか?人格の無意識はこう言います。「私にはプライドがある。それが良くないことは分かっている。このプライドは持ちたくない。だから、自分自身から隠してしまおう。」他者の意見を気にすることで、自らの人格を侵害することになります。自らに正直ではなくなります。恐らく、それは最大の罪のひとつであり、そこから他の多くの罪が生じます。そして、それがあなたに罪悪感を抱かせるのです。

 

  質問:世論を恐れることと、不評を恐れて承認されることを望むことには、どのような関連性があり、どのような違いがありますか?

 

  質問:必ずしも違いがある訳ではありませんが、違う場合もあるかもしれません。人が世論を非常に気にする場合、それは確かに世論に認めて欲しいからです。批判を受けることがなければ、安心できるからです。同様に、人は他者と切り離されることを好みません。子供は、自分が他の子供達と違うと感じる度に苦しみます。子供にとって、異なるということは劣っていることを意味します。成長しても、この傾向が残っている場合があり、正しくても間違っていても、大衆の基準、大多数の意見に過剰に固執するという形で現れることがあります。世論は多くの場合正しいかもしれませんが、まず自らの意見を吟味することもなく世論に固執するなら、それは束縛となります。自由な人は、他者の意見を気にすることなく、自らの内にしっかりと安心し、良心と神に従ってそれぞれの問題を個別に検討し、それから自らの行動を自由に選択します。場合によっては、世論を支持することもありますが、それは束縛された人の支持とは全く異なります。また、自らに正直である為に、世論を見捨てることもあります。その人は、代償を支払うつもりがあるのです。これが健全な態度です。お分かりですか?

 

  質問:はい。ここまでは良く分かりました。承認を求めることとは、どのように異なっていますか?

 

  回答:違いはありません。その一面と言えるでしょう。ある人格タイプでは、他者に認められたいという強い願いが、世論への依存という形で現れます。別のタイプでは、反対の態度を取ることを通して、認められようとします。そのような人は、世論に縛られる人と同じ動機から、常に世論に反する行動を取るかもしれません。どちらの形も、不健全である場合もあるし、成熟し調和している場合もあります。しかし、成熟し調和している人には、パターンがありません。世論に賛同することもあれば、反対することもあります。しかし、賛同や反対のどちらかに偏った行動を取る人は、動機が不健全であると疑われても仕方ありません。何故、ある人は不安や依存をある形で表し、別の人はその反対の形を選ぶのかは、多くの要因によります。それは、成長、環境、影響、そして何よりも、人格の特徴と個々の性格の問題です。大抵、ふたりの異なる人間が、同じ条件下で、同じ出来事に対し、同じように反応することはありません。

 

  親愛なる大切な友人の皆さん、今夜、神の天使たちが皆さんを祝福する為にこの部屋にいます。ここにはいない全ての友人達、この教えに従う全ての人々にも祝福は届けられています。大事な皆さん、この道を歩み続けてください。皆さんの真の努力の為に、このように短い期間で非常に多くのことが達成されました。諦めないでください。何としても続けてください。そうすれば、真の自己と向き合う為に自らの存在の奥深くに入らないと得られない、愛と理解の力が手に入ります。神の為に、そして、皆さんのために愛と勇気の偉大な行為を自ら成し遂げたイエス・キリストの為に、最初の困難を乗り越えれば、必ず成功すると信じてください。実際それこそが。真に永続的な成功を達成するための唯一の努力なのです。皆さん、この特別なフォースを受け取ってください。黄金の光が、心、魂、スピリットに差し込み、皆さんを支えてくれるように。キリストの光が皆さんを照らしています。平和の内に、神の内にありなさい!

 

 

 

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PGLNo 42
PGLNo45

Pathwork Guide Lecture No. 45

1996年版

1959年1月30日

 

 

意識的な欲望と無意識的な欲望の葛藤

THE CONFLICT BETWEEN CONSCIOUS AND UNCONSCIOUS DESIRES

 

 

  主の御名においてご挨拶させていただきます。親愛なる友人の皆さんに祝福を。この時は祝福されています。

 

  親愛なる皆さん、ご存じのとおり、人生の理由や目的は成長と浄化以外にはありません。従って、この道を歩む人は人生を無駄に過ごすことはありません。間違いなく、この道は自己認識かつ自己浄化への最短の道です。自己認識がなければ、自己浄化はありえません。自分自身を知らなければ浄化は不可能です。自己認識と浄化が必ずしも同じであるとは限りませんが、多くの場合、自らを完全かつ徹底的に認識できれば、既に多くの部分は浄化されています。抵抗や誤魔化しなしにそうする為には、今のありのままの自分を受け入れる謙虚さを持ち、これまでその重要性を無視していたかもしれないローアセルフの一部を認めることが不可欠です。そのように自らに正直になることで、感情を変えられるようになるずっと前から、皆さんは既に浄化の中にいます。

 

  皆さんは、感情の変化は命令できるものではないということを忘れがちです。意志の働きで、感情や感情的反応を変えることはできません。混乱した感情に明確な意味を見出すという、必要かつ多くの場合、退屈な作業を進める為に、意志を使うことはできます。この道を歩むことを完全に決断することも、意志を使ってできます。しかし、ローアセルフを認める謙虚さを繰り返し持たない限り、感情を変えることはできません。繰り返しますが、内なる反応の誤りを何度でも認識してください。このようにして、皆さんは達成したい変化そのものを培うのです。

 

  皆さん、自らを知ること、これまで気づかなかった部分である本当の自分を見つけることが、常に目的であり課題なのです。ではこれから、皆さんが更にその方向へ進むことを助けましょう。

 

  人格には非常に多くの側面があることは忘れられがちで、その為、「自らを知る」ことの本当の意味はめったに理解されません。皆さんは確かに、自らの意識的な目標や反応、嗜好や特異性等について知っています。しかし、大事な皆さん、皆さんが完全に無視している他の側面も沢山あるのです。自分自身や、過去のみならず、現在の生活環境で知っている多くの人たちのことを考えてみてください。特定の人達、家族、友人に対し、自分がどう変わるか、どれほど違う態度を取っているのかを考えてみてください。それぞれの状況で異なる「あなた」がいます。Aさんに対する態度で、Bさんに接したらどうなるかを想像してみてください。アルファベット全部で調べてみれば、自分にはそれだけ多くの側面があることが分かるでしょう。それは単に表面的なレベルに過ぎません。他の多くの側面は、決して表面的な人格には現れないからです。では、どうすれば自分をより深く知ることができるのでしょう?

 

  皆さん、最も重要な第一歩は、自らの欲望を見つけることです。欲望と言っても、人生における重要な目的や目標、あるいは大きな課題のことを言っているのではありません。そうではなく、どんなに小さくても、明らかに取るに足らない反応にも、何らかの欲望が含まれているということです。不調和を感じたり、腹を立てたり、イライラしたり、はたまた喜んだり、楽観的になったりした日の些細な出来事を思い浮かべてみてください。これらの反応のひとつひとつに欲望があります。自分が何者であるかを知りたければ、まず日々の反応のひとつひとつにある欲望を確認する必要があります。それは、あなたが考える程、難しくも簡単でもありません。ある種のテクニックや訓練が必要なのです。まず、私が度々勧めてきたデイリーレビューを行うことを学ばねばなりません。その次のステップは、「こんな時、怒り、希望、不幸、喜びを感じた」と認めるだけでなく、他者や外部の状況を見る限り、どれだけ明白な理由があったとしても、何故そのような反応を感じたのか自問することです。

 

  自らの反応の背後にある欲望が何であるかを自問しましょう。「今、怒ったり、恐れたりしているのは、この状況に関連して自分が本当は何を望んでいるからだろうか?違うものを望んでいるから怒っているのだ。欲しいものは何だろう?」あるいは「私が喜んでいるのは、私の欲望が満たされたからだ。その望みは何だったのだろう?もし私が希望を感じているとしたら、それは私の欲望のいくつかが満たされる可能性が高いと感じるからだろうか?この欲望は、分かりやすい簡単な言葉で言えば、何だろう?」

 

  友よ、このような自問自答を習慣づけてみてください。毎日、自らの全ての反応を取り上げ、この観点から検証してみましょう。欲望は何でしょう?そうすれば、親愛なる皆さん、自らをより良く理解するのに大いに役立ちます。何故今の自分になったのか、何故このような欲望を持つようになったのかを理解するのにも役立ちます。しかし、それは次の段階であり、現時点では時期尚早です。一度にひとつずつです。まず、自分の欲望について、簡潔で明確な認識を確率することを学びます。次に、それらが存在する理由を調べましょう。

 

  無意識の願望は、意識的な願望から外れていることがよくあります。これが葛藤や不満の主な原因のひとつであることを、皆さんはもう理解していることでしょう。それなのに、その意味をまったく無視しながら、しばしば同じような葛藤や不満を引き起こします。事実、あなたの行動を導く意識的な欲望や目標は、ハイヤーセルフの目的と一致していますが、同時に低次の利己的な目的も動機の中には存在します。これら低次の目的は、高次の目標の中に正当性を見出し、低次の目的の存在を隠すのに大いに役立ちます。親愛なる皆さん、重要なのはこの事実に気づくことです。行動自体は価値のある良いもので、崇高な動機が本当に存在していたとしても、その同じ目標の中に、高次の動機と低次の動機が共存しているのを見ることができなければ、その輝きは失われます。利己的で、尊大で、空虚で、恐れに満ちた動機が消えて無くなる程まで自己を浄化できるようになる前でも、その存在を認識しさえすれば、皆さんはかなり浄化され、皆さんの正しい行動も浄化されます。

 

  純粋かつ良いものを望んでいるにも関わらず、それが不調和をもたらすことに気づき、戸惑うことが良くありますね。それは、崇高な願望に関わる内側に存在する様々な動機を無視しているからです。意識的な崇高な動機によって、あなたの目的に何も間違いはないと納得していますが、実際には何らかの間違いがあることも感じます。その間違いとはつまり、同じ欲望の流れの中に共存する、他の部分を自らが知らないことです。皆さんは、「排他的」な態度に慣れてきっています。ある動機の真実が、別の動機の真実を排除すると思っているのです。多くの場合、本質は全くの逆です。ある動機が別の動機を排除するものではないことを本当に理解する為には、多くの自己実現が必要です。浄化とは、単に欲望を変えることではありません。最初に願望を観察して、良い動機と悪い動機を分けることです。決して感情に対して強いてはいけません。それは無理なのです。この点に関しては、どれほど強調しても十分ではありません。次のように言えるように努力してください。「私の欲望は、あれこれです。意識的な願望は良いものだ。しかし、数多くの利己的な動機が働いていることも私は知っている。良い行いは続けるつもりだが、利己心、虚栄心、それに関わる他のどんな傾向も全くないと自分を欺くつもりはない。私にできることは、これらの手に負えない流れが時間とともに弱まるのを祈り、望むことだけだ。今は、このように感じるしかないが、私はそれから自由になりたいと思っている。」

 

  このように繰り返し自らを観察することで、低次の流れは確かに弱まり、やがて消え去ります。こうしてあなたは、感情を無理に追い払うのではなく、浄化に向けて限りなく多くを成し遂げるでしょう。皆さんは、善意に満ちて感情を強制しようとします。特定の反応は利己的で愛情がないと知っており、そうありたくないと思っているからです。そのような傾向は、遠ざければ排除できそうに見えます。しかし実際には、単に覆い隠しているだけで、その存在を認識する場合よりも、遥かに大きな力を与えてしまいます。更に、実際以上に自らを純粋だと信じている為、自らを欺いています。無意識の中で低次の動機が沸き上がっていても、自分はそのようなものからは自由だと思い込むのです。

 

  人類は感情と思考を明確に区別します。スピリットにおいては、どちらも微細な物質の具体的な形であることはご存じでしょう。私たちの見方では、本質的に感情と思考は同じです。感情と思考の唯一の違いは強さと激しさであり、特徴や種類ではありません。感情は、あなたが抱くどんな思考よりも強力で激しいものです。感情で強化されない信念や意見は弱く、それは、感情で満たされた意見や見解よりもはるかに早く溶けてしまいます。この原則は、肯定的な思考だけでなく否定的な思考にも当てはまります。

 

  最も強い意識的な信念や思考は、全く無意識の感情の流れに比べれば何でもありません。この道を進めば、すぐにこの真実に気づきます。感情を意識化すれば、その感情は思考となり、更に望むなら、その思考は行動となります。こうしてあなたは、無意識の思考や感情に支配されたまま理由も分からずに、ただ行動を正当化する場合よりも、高次の意識の中で生きることになります。

 

  個人的な感情が関与していなくても、思考はすぐには変えられないことはご存知でしょう。感情を変えるとしたら、どれだけ時間がかかることでしょう!例えば、人生を通して抱いてきた一定の意見があるとします。感情的な関与はなく、その意見は表面的で、個人的な重要性はないかもしれません。習慣や周囲の影響に助けられ、その意見を保ち続けています。その為、とっくに廃れているにも関わらず、それを修正しようとは全く思いもよらないのです。個人的、心理学的要因、感情に関わる意見や態度を変えるのは、どれだけ難しいことか!人間の魂はいかに習慣に縛られていることか!怠惰やプライドの誘惑に打ち勝つ戦いの何と偉大なことでしょう!長年抱いてきた見方を変えるには、ある種の謙虚さも必要だからです。心の奥底では新しい見方が理にかなっていると理解し、感じていても、長い間持ち続けてきたというだけの理由で、ある意見に固執する人をよく見かけます。表面的な意見でさえ、変えるのには努力と謙虚さが必要です。感情の関与がない思考を変えるにも、一定のスキルが必要ですが、それを習得するのは必ずしも容易ではありません。ましてや、深く根差した感情に関わる見方や態度を変えるには、はるかに多くの忍耐と叡智が必要です。

 

  単なる思考でさえ、力ずくでは変えられません。誰も、自分自身でさえ、異なる考え方を強いることはできません。自ら熟考、比較、識別、選択しない限り、意見を変えることはできません。この過程で、新しい意見が生まれます。あるいは、意識的かつ慎重に考慮した結果、これまでの意見が正しいという判断を下すかもしれません。思考よりも強く、影響力のある感情では、力で成功することは更に少なく、当てにできません。未浄化な感情の性質をようやく認識したのに、未浄化の感情が変わらないと言って失望しないように。しばらくの間、その存在をただ観察せねばならない必要性を受け入れてください。それができるようになると、あなたは更に多くを学ぶでしょう。

 

  入り混ざった動機に気づくには、謙虚さが必要です。それは例え、今この瞬間はお世辞にも美しいとは言えない真実であっても、健全な真実の状態で生きることを意味します。ですから、自己認識を通して魂を健全にしてください。そのようにして、自らの感情が実際に異なるものになる時、ゆっくり、ひとつひとつ、意識や内なる概念の変化を経験するでしょう。それはあなたにとっての最大の勝利であり、安堵となります。しかし、それは一気に成されることではありません。このレクチャーで概説されている退屈なワークを行なわない限り、成果を得ることはできません。

 

  このワークを行なえば、問題や葛藤だけでなく、自らが持つイメージと、それがどのように形成されたのかを理解できるようになります。イメージを見つけるには、次のふたつの側面から取り組む必要があります。(1) 子供時代とその頃の自らの反応を調べる (2) 日常の出来事に対する現在の反応の中にある自らの欲望を調べる。これらは、ひとつの全体図を表します。今ある欲望を探究すると、何故、あるものが他のものよりも強いのかが分かるでしょう。良い動機と悪い動機の両方、及び人格のいくつかの層で構成され、逆流で壊されるものもあれば、ひたすらひとつの方向に流れるものもあります。そして何故、悪い動機の存在を意識から隠す必要があったのかが分かるでしょう。

 

  欲望を見つけることで自らを見出そうとする時に直面する別の可能性についてもお話したいと思います。意識的かつ外見的には、あなたの人生はうまくいっているように見えるかもしれません。しかし、内面は混乱しています。自分が何を望んでいるのか分からないことに気づくかもしれません。これは不可解で、多くの場合、動揺させられます。相反する欲望や、様々なものと絡む望ましくない欲望を抑圧した結果、魂は非常に混乱しており、結び目を解くにはあなた自身の努力を要するでしょう。最初は、本当は自分が何を望んでいるものが分からないと気づくのは、非常に恐ろしいことでしょう。その為に、まずは誤魔化しの欲望に逃げようとします。

 

  誤魔化しの欲望を見るには、内なる結び目のいくつかの糸を一本ずつ選び、引き離して、その方向をたどらねばなりません。結び目の小さな糸は、それぞれ小さな欲望を表しています。それぞれの背後には異なる動機があります。自分は多くの点で、知的で高度に発達した人であると知っているので、あなたは無意識の内に、様々な動機を全て認識することは不可能だと信じています。完全に矛盾した欲望がいくつもあり、それが互いに相殺し合っていることを、どうして認めることができるでしょう?それでも、内なる子供は、ふたつの不可能、あるいはそれ以上の不可能を望みます。この矛盾を隠すことで、あなたは自分自身からその矛盾を取り除こうと考えました。しかし実際には、この隠された矛盾の核心にこそ、あなたの不調和と失望の本質があるのです。

 

  唯一の解決策は、勇気と忍耐を持って、それぞれの糸を手に取り、日々の反応のひとつひとつについて自分が何を望んでいるか自らに問うことです。まずは、ただ欲望を書き出すことから始めましょう。「でも、こんなことは馬鹿げている。あり得ない。あるまじきことだ。」といった判断や評価は控えてください。そのようなアプローチは、結び目を解くことをより困難にするだけで、その作業を不可能にしてしまいます。あなたの隠れた感情は、外側の常識とは何の関係もないことを知ってください。抑圧され続け、成熟できなかったあなたの部分は、ふたつ以上の矛盾する欲望を叶えたいと思っていることを知ってください。表面下で葛藤しながら、手頃な表面的な欲望で矛盾する欲望の核心を隠したいという執拗な欲望の為に、内なる子供は不可能を望みます。欲望、感情、思考は強力な磁場である為、内なる葛藤に見合う状況を引き寄せます。そして、あなたは、自らの相反する欲望が外側の不幸や不満の原因であることに決して気づきません。それは論理的結果であり、内的状態が必然的に投影されたものなのです。

 

  おそらく、あなたはある種の充足を望んでいます。しかし同時に、その正反対の欲望の利益も望んでいます。後者の相反する欲望の動機は、あなたにとって好ましくは感じられないので、それを抑圧し、鍵をかけて閉じ込めます。感情や欲望が無意識であればある程、それが人生に及ぼす影響は大きくなります。その結果、意識的には望んではいないが、無意識に望んでいるものが手に入るのです。ただ、あなたは糸がついてない状態、不利益がない状態のそれを望んでいます。そして、理解できないのです!

 

  従って、自己探究をする時には、特定の目的の中で良い動機と悪い動機を分ける必要があるだけでなく、自分が本当は何を望んでいるのかが分からない可能性も考慮に入れなくてはなりません。相反する全て流れの原因を見つけ、これまで無意識だった混乱を理解して初めて、あなたは着実にひとつの方向に進むことができる、ひとつの明確な欲望が持てるようになります。そうすれば、魂は十分に成長し、代償を支払う必要があることに気づきます。そういうものなのです。簡単なことではありませんが、誠意を持って粘り強く取り組む人であれば、誰でも必ず実現できます。

 

  親愛なる友人の皆さん、私達は、子供時代に形成され、人生の不幸の原因となっている個人のイメージのワークに取り組み始めました。このようなに真剣に取り組んでいる皆さんは、大きく前進します。

 

  ここで、更に考える材料を提供したいと思います。それぞれの時代や文明には、個人のイメージだけでなく、集合的イメージ、民族的イメージ、国家的イメージ、歴史的イメージが存在します。親愛なる皆さん、これはとても重要なことです。何故なら、あなたの個人的イメージは、集合的イメージによって強化される可能性があるからです。もし、集合的イメージに関連する個人的イメージがなければ、集合的イメージの影響は受けないか、あるいは少なくとも、その時代の集合的イメージに何らかの形で合う個人的イメージがある場合に比べれば、その影響は半分もないかもしれせん。誰もが集合的イメージの影響をある程度受けます。集合イメージは、個人のイメージの性質に応じて多かれ少なかれ、あなたに影響を与えます。ですから皆さん、集合イメージの存在を認識することが重要です。それを認識すれば、内なる葛藤の解決に向け、更なる一歩を踏み出せます。そして、それぞれの集合イメージが、どのように個人のイメージを強めるかが分かるでしょう。集合イメージは非常にたくさんある為、その一部を列挙することさえ不可能です。しかし、続けて行く内に、あなたにとって重要なものは全て見つかるでしょう。

 

  いくつかの例を見てみましょう。寿命に関する集合的イメージが存在します。長い間、この集合イメージは、人間の平均寿命がおおよそ45歳という印象を保持していました。実際、大多数の人がその年齢で死んでいました。勿論、医療や生活環境の向上が現在の寿命の延長に繋がったとも言えます。私もそれは否定しません。しかし、このような向上があったからこそ、大衆イメージは変わり、この特殊な大衆イメージがなくなり始めたからこそ、その向上が実現されたのです。それは両方向から作用します。一方がなければ、他方は考えられません。もし人類が、古いイメージや幻想を手放す準備ができる程に心理的かつ霊的に成長していなければ、どんなに技術が進化しても寿命を延ばすことはできなかったでしょう。もうひとつの集合的イメージは、人はある年齢に達すると衰弱し、病気になるというものです。全人類がこのイメージの影響を受けています。

 

  考え得る全てのテーマに大衆イメージは存在します。友よ、このことについて考えてみてください。個人の生活に影響を与える集合イメージや幻想が、どれほど多く存在するのか分かります。類似する、あるいは関連する個人のイメージが関係している場合には、その影響はなおさらです。

 

  親愛なる皆さん、質問に移る前にもうひとつだけ言っておきたいことがあります。この道に取り組めば、多くの隠れた感情が表面化するのは自然なことです。隠れた感情が意識的になる程、仲間を思いやれるようになることを忘れないでください。無意識の支配下にある限り、他者に対して不快な形の行動を取らざるを得ない場合がよくあります。そのことに気づいていないかもしれません。勿論、本当に気づきたいと思うならば、自己分析のプロセスがなくても気づくことはできます。しかし、皆さんはそのような観察から逃げ腰になりがちです。何故なら、その観察は、心理が避けたいと思うような認識に至る可能性があるからです。この道を進むと決めたら、他者に与える影響について少し考える義務があります。自らを認識し、自らの感情を分析してください。けれども、それらを他者に放り出してはいけません。自己認識が深まれば深まる程、より無欲になり、周囲への影響をより意識するようにならねばなりません。

 

  それでは親愛なる皆さん、ここで質問に移りましょう。

 

 

  質問:守護天使について、もう少し教えていただけますか?

 

回答:そのテーマについては、過去にもうお話ししました。今ここでは、こう言わせてください。神が守護者を与えない人間など、誰ひとりいません。多くの人がこの事実を否定し、子供っぽい迷信だと思っています。そのような人達は、人類が前の時代に持っていた集合イメージへの逆反応である、現代の集合イメージの影響を受けています。そして、守護天使やそれにまつわる全ては、正反対のものへと歪められました。人間は、良いことも悪いことも全てを霊的な存在のせいにし、自己責任を回避しようとしました。ここに、作用と反作用として続く、ふたつの対極的な集合イメージがあります。昨今では、そのような考えは微笑んで無視するのが流行りです。しかし、全ての人間には守護天使が与えられています。その守護の強さやパワーは、神の計画におけるその人の成長や責任課題によって決まります。守護天使は神の法を厳守し、神の法や守っている人間の個人的な計画に応じてのみ干渉します。それ以外に、その人の判断や決断の誤りを防ぐ権利はありません。良い薬になる可能性がある不幸を防ぐことはできないので、そばで見守ります。守護天使の役割は守られる人間の個人的な人生計画に従って導き、原因と結果の法則に反することだけを防ぐことです。

 

  ご存知のように、人間は自らの自由意志で転生前に立てた計画を変えることができます。良い変化であれ悪い変化であれ、守護天使はその変化を妨害することはなく、守られる者が自ら生み出した影響のみを受けるよう見守ります。守護天使は、導きや啓示がどの程度与えられるか、どの程度与えるべきなのかを知っています。人間が正しい方向に最初の一歩を踏み出す時、つまり直接的または間接的な形で神に近づく時、守護天使はその歩みに役立つ術全てをもって自由に対応することができます。その第一歩が自由意志から生じたものでなければ、守護天使は守っている人間に正しい判断を強いることはできません。人が神と向かえば向かう程、守護天使は守っている人間に近づくことができます。人が神から遠ざかれば遠ざかる程、守護天使は遠くに立つことになります。これはどうしようもないことです。まさにそういうものなのです。

 

  それぞれの人間の周りには沢山のスピリットがいます。組織化されていない、必ずしも悪いとは限らないスピリットと同じように、邪悪なスピリットもいます。けれども、皆さんの周りにいるスピリット達が勝手に来る訳ではないということを忘れてはいけません。例え、善悪の程度が大きく異なっていて、あなたの現在の成長段階とはかなり異なっていたとしても、スピリットは基本的な類似性によって引き寄せられます。従って、あなたが邪悪な人でなくても、周囲に邪悪なスピリットがいるかもしれません。あなたの内なる特定な流れが、取りついている邪悪なスピリットと同じ基本的性質を持っているからです。同じことが神のスピリットにも当てはまります。組織化されていないスピリットが、どれだけ影響を与えるかは皆さん次第です。自己認識が高まる程、自らをコントロールできるようになり、スピリットであれ人間であれ、他の存在からの影響からより独立した状態になります。意識がある程度まで高まっていない人は、自分では気づいていないかもしれませんが、他者の影響を受けやすくなります。そのような人にスピリットが与える影響についても同じことが言えます。多くの場合、守護天使には見守るしかありません。あるいは、守護天使がそのような影響を防ぐこともあります。それは様々な状況に左右される為、ここでは列挙することはできません。全ては神の法の完全性と叡智によるものです。

 

  質問:守護天使はすべて組織化されたスピリットですか?

 

  回答:勿論です。しかし、皆さんの役に立ちたいと思っている組織化されていないスピリットが、周りにいないということではありません。それらのスピリットは、全く邪悪ではないかもしれません。けれども、正規の守護天使は、組織化されたスピリットでなければなりません。

 

  質問:神の計画によると、人間の寿命は何歳ですか?

 

  回答:それは単なる数字では答えられないですね。神の計画はどんな瞬間にも存在する、集合イメージを考慮せねばなりません。同様に、あらゆる存在の転生の詳細も全て考慮に入れています。その為、多様なのです。集合イメージは強いものなので、考慮に加えなくてはなりません。そのように個人的な計画と組み合わされ、ある人間は他の人間よりも長生きします。集合イメージが変化するにつれ、個人的な計画はそれに合わせて調整されます。その結果、人類全体が成長すればする程、個人がひとつの生涯で成就するチャンスは増えます。しかし、個人の寿命が現在の平均寿命よりも遥かに短い場合は常に存在します。いつの日か、平均寿命が100歳にかもしれませんが、それでも20歳で死ぬ予定の人も大勢いるかもしれません。

 

  質問:私がお聞きしたかったのは、創造は完全なので、完全性においては、寿命は何歳なのかということです。

 

  回答:でもあなた、この人間の領域、地球の領域では完全はあり得ません。地球は一時的な領域であり、不完全さがなければ存在し得ない一時的な段階です。いかなる存在であれ、完全に達すればその存在は最早、誕生と死のプロセスを経る必要はなくなります。その存在は、時間を超越した永遠のスピリットになります。

 

  質問:転生の中にいる守護天使はいますか?それとも、守護天使はみな転生のサイクルから外れていますか?

 

  回答:それは人間次第です。多くの人間は、このような自己成長の道を歩んだり、霊的な使命をはたしたりする段階に達していません。平凡と言えるような人生を送り、経験によってゆっくりと学び、成長するか、あるいは足踏みをしたままの人々です。そのような人々には、当然、組織化されたスピリットであっても、未だ転生のサイクルから抜け出していない守護天使がいます。非常に成長が早く、このような道を歩みたいと望み、最終的に使命を全うする人には、より高次の強力な守護天使が与えられます。必ずしもではありませんが、このような守護天使は多くの場合、転生のサイクルから外れています。

 

  質問:人種的イメージや宗教的イメージも、集合イメージの一部を形づくると思うのですが?

 

  回答:勿論です。

 

  質問:そうすると、転生のサイクルで、魂はあらゆる人種や宗教的なイメージを体験することになります。そうしたら、転生は全てが混じり合ったものになります。これは浄化に役立つのでしょうか?

 

  回答:はい、まさにその通りです。

 

  質問:隠された欲望についてお聞きします。人は、時として欲望を含んだ喜びを感じることもあります。喜びを感じることがあるのは、神に少し近づいたからではないだろうか?

 

  回答:確かにその可能性はあります。自らの内なる勝利で喜びを感じることもあります。すべての喜びに低次の傾向があるとは言いません。全くそうではありません!その場合には、素晴らしい建設的な欲望が満たされたか、あるいは部分的に満たされています。しかし、改めて目を向けてみるのも悪くはありませんよ。それが答えの全てなら問題ありません。いずれにせよ、純粋な喜びを感じ、それを再び失うことを恐れず、不穏な不調和がなければ、そこを調べる必要はありません。この道を歩む皆さんは、主に不調和の要素を含む矛盾する感情を抱いた時にはそうしている筈です。これは一定の喜びを経験する時にも起こり得ますが、自分自身に耳を傾けるならば、喜びと共に他の感情も存在しています。

 

  質問:どんな気持ちにも必ず隠れた願望があるのですか?

 

  回答:隠れているかいないかに関わらず、あらゆる感情には欲望があります。しかし、全ての欲望が、悪くて間違っている訳ではありません。全ての気持ちは、欲望を含んでいます。何故なら、気持ちは感情の産物だからです。

 

  質問:悪い動機で良い行為を行卯ことは望ましいのでしょうか?それとも行為を慎むべきですか?

 

  回答:いいえ、慎むべきではありません。自己欺瞞なく、良い行為に悪い動機があることを認識するだけで良いのです。悪い動機が認識されるだけでも、全ての魂が最終的に通らねばならない浄化の大きな助けとなります。始まりは、常に自分に誠実であることです。

 

  質問:私たちが求めるものを引き寄せるという、守護天使についての回答に戻ります。それは親和性の法則ですか?

 

  回答:はい、そうです。

 

  質問:それについて、もう少し教えていただけますか?

 

  回答:親和性の法則については、これまでのレクチャーでかなり説明しました。常にこの特定の用語を使う訳ではありませんが、実際に私が話したり、教えたりすることはすべて親和性の法則に基づいています。霊的法則とは、全体としてそういうものです。それは原因と結果の法則であり、全ての普遍的かつ心理的プロセスを含みます。例えば、イメージを例にとります。あるイメージが存在し、人を人生の特定の状況に引き込む時、特定の人々がその人生に引き込まれます。これは親和性の法則によるもので、思考、感情、欲望の形が、それに対応するものを引き寄せるからです。親和性の法則の妥当性を理解しない限り、イメージの概念全体の理解はできません。オードの力と呼ばれる個々の生物からの放射、様々なオードの力から生じるさまざまな波動は全て、親和性の法則に基づきます。

 

  質問:集合イメージについての質問です。私たちは人種的イメージや信条的イメージの中に生まれるのですか?例えば、異なる信条の人がこの道を歩んだとしたら、より具体的には、キリスト教徒ではなくユダヤ教徒がこの道を歩んだとしたら、どうなりますか?ある意味、前者の信条に対する軋轢や憎しみが生じます。これをどう説明しますか?

 

  回答:一部の魂は、依然として自らの人種や信条のイメージと深く関わっています。何故なら、個人の心理的要因、すなわち個人的なイメージの流れが、それぞれの集合イメージと共に働くからです。そうなると暫くの間、そのイメージを壊そうとは思わないでしょう。硬直が緩むまでには、いくつかの転生が必要です。同じ人種や信条に生まれた者でも、既に自らの人種や信条のイメージを解消している者もいます。彼らは、既にある程度、個人的イメージを解消しているか、それぞれの集合的イメージとの相互依存性が低い、別な個人的イメージを持っていたり、個人的イメージが全くなかったりします。この点に関して、数多くの論争や個人的な感情がある為、偏ったイメージによって、殆ど全ての人がこのテーマについて何も聞くことができないでしょう。国籍についても同じです。ナショナリズムや、誇張された愛国主義の傾向が強い国に生まれる人がいます。彼らはその国に留まり、独自の物の見方が偏っていることに気づきません。同じ国に生まれても、外に出て、他の国や人々を見たいという衝動に駆られ、視野を広げる人もいます。宗教的な集合イメージも同じです。ある人は、まだ深くのめり込んでいますが、別な人はそこから抜け出そうとしています。少なくともこの点では、一方がより発達しています。別の点では、今なお一方的で偏っている人の方が、遥かに進んでいるかもしれません。しかし、この一点において、前者は、自らの文明の集合イメージによる影響を破壊し始めています。

 

  皆さんの時代に起こっていることは、ナショナリズムに関する集合イメージをゆっくりであっても確実な破壊です。その為、私たちの観点からすると、戦争の激動や酷い悲しみにも良い点はあります。これらの激動がなければ、人々は国から国へと移り住み、視野を広げることはなかったでしょう。これは、彼らの集合イメージを破壊し、多くの場合、最終的には個人的イメージに影響を及ぼします。同じことが、宗教にも起こります。従って、地球上の恐ろしい出来事、例えそれが戦争であっても、人類を成長や霊的実現に導かないと考えるのは短絡的です。成就は必然的であり、いずれにせよ必ず起こる筈なのです。人類が未だ平和への道を見出せなかったとしても、誤った選択肢も又、統一と幻想からの解放、即ち集合イメージからの解放という目標へと導いてくれるに違いありません。確かに、暴力や憎しみ、偏見や利己主義、戦争の原因は全て霊的なものではありません。しかし、多くの人々は未だにそのような状態にいます。そのような盲目状態を徐々に取り除くには、ただ前に進むことなのです。しかし、このような流れがあるにも関わらず、成長を止めることはできません。何故なら、戦争や動乱がもたらすものは、常に1つの目的に向かっているからです。それは、霊的進化、統一、自らの内なる鎖からの解放です。この視点から歴史を見れば、少し違った考え方できるでしょう。個人においてそうであるように、人類全体にとってもそうなのです。自らが蒔いた種で経験する苦難は、まさにそれから解放されるための薬なのです。戦争を広めるべきだという意味ではありませんよ。

 

  質問:キリストの下での統一を求めるローマ教皇の提案は、それに向けた平和的な一歩だと思いますか?

 

  回答:勿論です。結果がどうであれ、理想的な解決策がすぐに見つかるか否かに関わらず、宗教的な集合イメージが一歩一歩破壊されている兆です。

 

  親愛なる友人の皆さん、神の祝福と救い主イエス・キリストの愛と光を皆さんに残し、私の世界へ戻ります。皆さんひとりひとりに与えられた力と愛を受け取ってください。大事な皆さん、平和の内に。神の内に!

 

 

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Pathwork Guide Lecture No. 48

1996年版

1959年3月13日

 

 

宇宙の生命力

THE LIFE FORCE IN THE UNIVERSE 

 

 

  主の御名においてご挨拶します。最愛の友人である皆さんに祝福を。

 

  今夜は、宇宙の生命力についてお話します。宇宙の生命力は、すべての天体や世界、すべての無生物、抽象的なアイディア、生きている人間に含まれています。それなしには何も存在できません。他の領域、皆さんの手も届かず、理解も及ばない高次の領域における、その生命力の顕現についてはお話ししません。理解できないのですから、友よ、それには意味はありません。皆さんの日常生活にあわせた言葉で話しましょう。

 

  無生物は石化した生命力です。美しいアイデアや真実は、流れる生命力です。生命力は永遠であり、全ての生命は永遠なのです。死は幻想に過ぎません。あなたが死んだと見なす無生物は、一時的にそうなっているだけなのです。全ての生命は、それがどのような形で現れようとも、永遠に存在しなければなりません。何故なら、永遠ではない生命は生命ではなく、無意味な矛盾なのです。生命力は全て、神の属性を含んでいます。それは、存在に至った訳でもなく、何かをする訳でもなく、働く訳でもなく、持っている訳でもありません。それはただ、そうなのです。これらの言葉の意味と区別を理解しようとしてください。生命力はあなたの周りにあり、あなたの中にあるのです。

 

  生命力と完全に調和しながら生きている人間は死にませんが、肉体に留まることもありません。何故なら、皆さんの物質(肉体)は生命力が石化したものであり、何らかの形で生命力の場が乱された所にのみ存在するからです。様々な教えで聞いたことがあるでしょう。死は原則的に不必要なものであり、いつの日か無くなります。完全に自己実現した人は、徐々に肉体を霊的な形に変えていきます。その実現は、地球時間で測ると非常に遠い未来ではありますが、そうなります。原則的には、確かに可能なのです。

 

  生命力が侵害されていない所なら何処でも、完全な調和と平和の幸福が手に入ります。その幸福は、皆さん人間にとっての一時的な幸福につきまとう、生命力を再び失うことへの不安や恐れのないものです。

 

  皆さんは、これまで聞いた教えから、自らの魂の中で絶えず、霊的法則を犯していることを知っています。例え、行為、言葉、思考ではなかったとしても、少なくとも無意識の感情の中で行われています。そのような反則が起こる度に、あなたは自分の中に流れる筈の生命力を捻じ曲げてしまいます。生命力があなたを復活させることを妨げているのです。私がこの自己発見の道で示しているのは、自らの内にある全ての壁、岩、石化を溶かし、生命力があなたの内で働けるようにする為の、段階的でゆっくりとした方法です。これ以上に早い方法はありません。僅かでも勝利を経験した人は、抵抗に打ち勝ち、真実を見出し、不快なものをも認識しました。というより、まさに、その不快なものであったでしょう。この人々は、次の障害に取り組むまでの間、平和で力強く、生き生きとした感覚を味わいました。こうした稀な瞬間は、私が話すことが単なる美しい物語でも、今とは何の関わりもない、遠く離れた抽象的な理論でもないことの生きた証となる筈です。それは究極的な現実であり、あなたが内面に目を向ければ、いつでも手が届くものなのです。

 

  魂の中に障害が存在するのは、あなたが何らかの形で神の法を犯しているからに他ありません。神の法を犯す時、生命力は働くことができません。あなたにとって、「法」という言葉には、間違った含みがあることが多いので気をつけましょう。殆どの人は、この言葉を聞くと、私が意味する所とは全く関係なく、感情的に反応します。法とは、皆さんにとって、しばしば無意識の内に、強制され従わざるを得ないもの、自分も強い権威を意味します。このことは、先日のレクチャーでも概説しました。法の概念と、このような感情的な結びつきは、その真の意味とは完全に対立するものです。真実で神聖なる意味合いでの法とは、力や強制とは何の関係もありません。全く逆なのです。自らの外からであれ内からであれ、力や強制が働いた瞬間、神の法が犯されたことになります。何故なら 神の法則とは内なる自由だからです。

 

  誤りから自分を解放することによってのみ、内なる自由を得ることができます。最初の必然的なステップとして、誤りを意識せねばなりません。その後に初めて、そこから自らを解放できるのです。ですから、神の法則を犯すと言うかわりに、神の真実を犯すと言った方がいいかもしれません。なぜなら、真実は生命力であり、真実は間違いなく神の法則だからです。親愛なる友人達よ、皆さんは知っていますね。私が皆さんを導く道は、あなた自身の真実を示しているのです。

 

  生命力とは再生です。石化した生命力は退化を意味します。あなたが抱えているイメージ、間違った結論、意識的または無意識的な無知と誤りの中で、あなたは真実の中で生きていません。従って、様々な特質がありながら、常に、身体、マインド、魂、スピリットを癒す力となる生命力を邪魔してしまうのです。このように、肉体的な病気の全ては連鎖反応に過ぎず、妨害された生命力の最終的な外的症状であるとすんなりと信じることができるでしょう。

 

  魂の中に障害物がある場合、その病を取り除く唯一の方法は、まず生命力を適切に受け入れる準備をすることです。最初のステップは、真実でないものに向かい合うことです。勿論、それは気持ちの良いことではありません。多くの人々は、この道が正しい筈はないと考えるようになります。神は美しく、調和がとれていて、至福に満ちているのだから、それとは正反対のことを経験するのは、何か神に反することが起きている証拠だと考えるのです。友よ、何という誤解でしょう!自らが魂に植え付けた不調和を全て回避するだけで、神の調和を直接体験できるなんて、どうしたら信じられるのでしょう?

 

  神の真理を厳密に理解するためには、まず自分が引き起こした誤った原因を理解しなければなりません。もしあなたが庭に毒のある植物を植えて、すべての良い植物を台無しにしてしまったとしたら、その毒のある悪い植物に触れずに取り除くことはできるでしょうか?この作業は決して楽しいものではありません。毒に触れる内に、一時的に毒の影響を受けることもあるかもしれませんが、それは避けられないことです。毒のある植物を庭に放置しておくよりはましでしょう。

 

  自分の中にある痛みの原因となってきたものを取り除く為には、何らかの方法で痛みに耐えねばなりません。友人の皆さん、悪化するものと再生するもののふたつの基本的な種類の痛みを区別することを学んでください。それは肉体的な領域にもあります。病気になるという痛みと、発症した病の症状を感じる痛みがあります。ひとつは、下降線をたどる時です。そして、それとは別の痛み、治癒のプロセスに伴うより切実な痛み、再生の痛みです。これは大抵、いや常に、完治や治癒が起こる前に必要とされる痛みです。こちらの痛みは、上昇する曲線を描きます。例えば、手術を受ける前に、まずは病気だと知るよりも前に、病気になる痛みのようなものを感じます。あなたの医師は、原因を見つけて手術をします。

治癒のプロセスでは、まったく別の種類の痛みに耐えることになります。膿を出して、浄化された状態で組織が再生しないと傷は治らないことを、皆さんご存知ですね。これが再生の痛みです。

 

  魂にも同じことが言えるのです。友よ、この現実から逃れることはできないのです。あなたの選択肢は、下降線上に留まり、症状に苦しみ、悪の根源に行くことを拒むか、勇気を奮い起こして問題に近づき、傷口を切り開いて、自然のヒーリングの力に任せるかのどちらかです。誤りや誤った結論といった膿を出した後は、再生する痛みに暫く耐えねばなりません。手術そのものは、自らの誤りを直視するという不快なものです。それは、上昇曲線が可能になる前の、高い所、あるいは低い所と言ってもいいでしょう。

 

  これを視覚化することで、今、陥っている罠から抜け出しやすくなるかもしれません。暗闇や絶望に耐える必要はありません。大事な皆さん、向き直ってみてください。そして、私がここで言うことを理解し、症状だけに気をとられずに、本当の苦悩にアプローチしてみましょう。この道を最も進んでいる人でさえ、「手術」の鋭い痛みに対する無意識の恐れから、原因ではなく悪の症状に目を向ける誘惑にかられます。一度、勇気を出して 「手術 」に踏み切れば、その痛みの時間はとても短いのだと理解してください。しかし、症状に執着し、その起源である自らの内側から目を背けて、下降曲線に留まるならば、苦しみは長く続きます。あなたが本当の問題に向き合い「手術」を決意しない限り、痛みは続きます。

 

  このアドバイスは、この道全体に対してのみならず、この道における全てのステップに適用されるべきです。この道を歩んでいたとしても、魂のある種の病を故意に見過ごし、外的世界に治療薬を求めているかもしれません。これもまた、症状への執着です。あなたの魂に宿る誤認や誤解や虚偽に向き合うことで、内面にある弊害や石化が解消されればされる程、あなたの中に生命力が流れることを許せます。そうすればする程、あなたはあらゆるレベルで早く復活することができるでしょう。

 

  このレクチャーの冒頭でお話したように、完全性とは、時間的な意味だけでなく、範囲的な意味でも、無限かつ永遠のものです。あなたは地上にいながらにして、この全てのごく僅かな部分を感じ体験できるのです。石ころだらけの険しい自己発見の道を歩む者は誰でも、徐々に、少しずつですが、信じられない程の変化、自己発見の道に力を注がない者には信じ難いような変化を経験するでしょう。友人の皆さん、私は奇跡をお約束する訳ではありません。そのような意味での奇跡は存在しません。そのような救済を信じることを望む者は、それが個人的な努力が伴わないから、そう望むのです。それなら簡単です!しかし、そのような救いは存在しません。この道は全くの現実であり、おとぎ話は存在しません。私が皆さんにお見せする現実は、やるべきワークを避けずに、代償を払うつもりがあれば、誰でも体験できるものです。そうです、この道では奇跡は起こります。しかし、それは努力して手に入れた場合に限ります。それが、本来あるべき姿であり、理にかなっているからこそ安心して信じられる道なのです。そして、もうひとつ忘れてはならないのが、人格の微妙な変化は、まず内面に現れるということです。他人からは気付かれなかったり、状況の変化として現れたりします。最初の顕現は、常に自分の内面で感じ方や反応が変わることです。あとは後からついてくるものです。

 

  ですから、親愛なる友人の皆さん、生命力を魂に入らせてください。単にそのように意志して、神聖な気分になろうとするだけではできません。それも、少しは役には立つかもしれませんが。祈りは、自分の役割を果たす為に必要な力を与えてくれるでしょう。しかし、やるべきことをしなければなりません。自分自身と向き合い、一度やそれ以上に壊してしまった生命の流れを、反抗や怠惰や自己憐憫を克服する努力によって再生させるのです。あなたが経験していることが、どれだけ不正で不公平に見えたとしても、一瞬たりともそのように信じないように。結局のところ、絶対的な真実と現実においては、あなたがそれを引き起こしているのです。原因を見つけ、これまでの方向性や、長い間留まっていた状態から抜けだす方法を見出さねばなりません。親愛なる友よ、このことをよく考えてください。

 

  そして、イメージ探しに取り組むにあたり、もう少しアドバイスをしましょう。このテーマに関するレクチャーでこれまで私がお話ししたことは、全体的で一般的な主題や概念が人間の心理に及ぼす影響をお見せしたに違いありません。従って、一般的な態度を調べる必要があります。一般的な概念やアイディアに対する態度は、人間のマインドと魂において非常に個人的なものとなります。何故なら、全ての人間が、人生において、そのような主題に当てはまる個人的な体験をしているからです。私がこれまでに紹介してきた方法は、改めて列挙はしませんが簡単に言えば、個人の人生の物語やデイリーレビューの実践などです。このような材料が手元にあれば、あなたは確かに自らの探究において成功を収めるでしょうし、実際に成功しています。さて、この方法に加えて、もうひとつのアイテムをお渡ししたいと思います。皆さんの中には、全く気づかずにそれを使ってきた方もいるでしょう。しかし、これからはワークの不可欠な部分として取り入れるべきです。それは次のようなものです。一般的なアイディア、概念、原則の全てを取り上げ、人生にとって重要なものを全てリストアップします。愛、エロス、性、権威等、既に説明したものもあれば、今後お話しするものもあります。お金、仕事、様々な感情、人間関係、その他多くの一般的な主題について、その人の最も差し迫った問題に合わせて調べてみましょう。その主題に対する各人の態度を調べます。まず一般的な考え方や、その人が困難を抱えているような主題への観点を話してもらいましょう。それから、子供時代、思春期、青年期など、特定の視点から、その人の人生について質問を始めます。

 

  その人に、両親の態度、あるいはそう見えた態度がどのようなものだったのか教えてもらいます。そうすると、十中八九、知的な概念と感情的な行動や態度が全く異なっていたことが分かるでしょう。これは、イメージや誤った結論を導き出す重要な手がかりとなる筈です。この方法を全体のメソッドに組み込み、機が熟したと思われる時にはいつでも使います。それを明確なプログラムにしましょう。とはいえ、厳格なシステムであってはなりません。あなたの直感を頼りに、その人の個性に合わせて行ってください。ひとつのケースでは、ある主題を最初に選び、別のケースでは、異なる主題が適切かもしれません。そして又、別のケースでは この種の調査は完全に待った方が良い場合もあるかもしれません。

 

  今後は、この種の一般的な主題について、無意識下での誤った解釈の観点と、正しい反応がどうようなものであるべきかを考えていきます。

 

  さて、親愛なる友人達、皆さんの質問に行く前に、非常に興味深い提案をしたいと思います。皆さんの間には非常に多くの軋轢があります。これはどのような人間集団でも避けられないことです。皆さんは善意に満ちており、衝突を望んではいません。問題は常に、どうやって軋轢や衝突をなくすかということです。様々な方法があります。試したことのあるもの、試したことがないもの、あるいは忘れてしまったものもあるでしょう。

 

  では、新しい提案をしましょう。これを使えば、とても上手くいく筈です。弁護士が全く異なるふたつの側面から事件を弁護できることをご存知ですね。まず、彼らは一方の視点から事件を代弁し、とても説得力を持たせることができます。次に、反対の立場に立って、同じように説得力を持たせることができます。このことは、弁護士であれば誰でも実践できます。多くの弁護士は、トレーニングの一環としてこれを実践します。

 

  もし、あなたと兄弟姉妹の間に軋轢があるなら、私のアドバイスは、あなたがその兄弟姉妹の弁護士になることです。その弁護を引き受け、相手がどのようにその件を見ているのかを確認し、それをまず自分自身に提示します。それが最も簡単でしょう。次に、その葛藤から距離がある客観的な立場の第三者、恐らくは一緒にワークしてくれる人の所へ行き、その人の立ち会いで同じプロセスを繰り返します。これが第二のステップです。そして、もし本当にこの特定の件において最上の段階に到達したいのであれば、対立している相手の所に行き、その人の弁護人になることです。そうすれば、相手も同じことをするでしょう。それには勇気と謙虚さが必要です。この道で成功を収めるには、このふたつの特性は必須です。しかし、あなたが三番目の最高のステップを踏む気になれないのであれば、ひとつ目、そしてふたつ目のステップを試してみてください。

 

  中途半端な気持ちからではなく、真剣に取り組んでください。自らを忘れるようにしてください。あなたが実際に弁護士であり、自らの評判がかかっているかのように、相手の為に弁護をしてください。自分の正しさを証明したい思いが心の片隅にあるが為に下手な弁護をすると、自らの役割を全く果たしていないことになります。ゲームをしましょう、相手の為になる説得力のある論拠を提示できるかに、自分の人生がかかっていると想像してみましょう。あなたが相手を上手く弁護すればする程、あなたにとって有利になるのであって、あなたが信じ続けているように、相手を上手く弁護すればする程、あなたが不利になる訳ではありません。まず相手があなたの話を聴いた後、相手は「依頼人」として、あなたがより上手く弁護できるように追加の情報を提供してくれるでしょう。あなたの 「依頼人 」の弁護をより強力なものにする為に、耳を傾けてください。

 

  大事な皆さん、これが皆さんに何をもたらすかお分かりですか?新たな理解の展望が開かれるのです。あなたは、自分の弁護だけすることに慣れています。そこでは、あなたは完璧です。そこでは これ以上の改善や練習は必要ありません。反対側を見ることを学びなさい。自らの弁護士ではなく、相手の弁護士になりましょう。これが、私のアドバイスです。軋轢を無くす、あるいは軋轢を最小限に抑える為の最も確実で早いこの方法を実行すれば、とても良い練習になるでしょう。グループワークの良いアイディアであるかもしれません。まず自分のケースを簡潔に述べ、次に相手の弁護士になります。自分の為の弁護と相手の為の弁護と、どちらが優れているか、他の人々に判断してもらいましょう。

 

  それでは、友人の皆さんからのご質問の準備ができました。今夜話されたテーマについて、何か質問はありますか?

 

  質問:科学は、生命は光と意識だと言っています。それは今夜あなたが仰ったことと一致しますか?知性と光なのでしょうか?

 

  回答:勿論です。ただ、それだけではありません。知性と光はふたつの細部に過ぎません。生命力とは、存在する全てのものです。全ては良いのです。そして、否定的なものや有害なものは全て、石化した生命力であり、神の真実や神の法則は守られていません。

 

  質問:チーム・ヘルパーの主な資格と前提条件は何ですか?また、一般的に、チーム・ヘルパーとして働き始めるには、どのくらいの期間のトレーニングと自己浄化が必要なのでしょう?

 

  回答:これは一般論で答えるにはかなり難しい内容です。でも、答えてみましょう。一般的な資格のひとつは、ある種の心理的な才能です。それは言うまでもありません。この才能がある人とない人は、割とすぐに分かります。大抵の場合、その才能の有無は、本人でさえ自覚している筈です。この才能を持っていなくても全く恥じることはありません。誰もが同じ才能を持っている訳ではありません。自分自身にそこそこ正直な人であれば、この特定のワークに必要となる才能を自らが持っているかどうかは知っている筈です。例えば、洞察力、直観力、推理力、観察力、他人への非常に温かい関心、前向きな感情、又ある種の基本的な冷静さ等です。

 

  時間的要素を確定するのは不可能です。多様なのです。ある人には、このワークを他者より早くこなせるかもしれません。それは人によります。他者とワークをする前に、イメージの全てを見つけ出し、解明させることは前提条件ではありません。ただ、いくつかの発見はなされている必要があり、その探究の結果のいくつかは得られている必要があります。しかし、絶対的な前提条件のひとつは、自分の道においていくつかのワークを成功させ、認知による安心感を味わい、内的変化を経験したという点です。

 

  この経験と安心感を味わう前に、人は他者を助けることはできません。それがどのような感情なのかを味わってこそ、確信を持って助けることができるのです。ある種の安心感と勝利が訪れない限り、あなたは暗闇の中におり、自分の困難に巻き込まれており、他者の為に開かれた目を持つことはできません。必要な客観性と直観が欠けているのです。これが、あなたが継続したり判断したりするための基準です。

 

  準備ができているかどうかは、自らにこのように問いかければ、自分が一番良く分かっている筈です。「私はその経験をしたか?私は完全に確信を持っているか?自分の中にある基本的な問題を克服できたか?自分の中の何が主な問題を引き起こしているのか、本当に理解しているだろうか?」 繰り返しになりますが、イメージが解消されている必要はありませんが、自らの人生における因果関係を理解することで必然的に得られる安心感は、経験されていなければなりません。

 

  質問:前回のレクチャーの「壁」について読み返すと、「壁」を見つけるということは、その壁がほぼ物理的に存在していることに気づく必要があるように思えました。それは正しいでしょうか?

 

  回答:「物理的に 」が何を意味するのか分かりませんが。私が言いたいのは、あなたがそれを視覚化し、魂の中の具体的な何かとして、それを感じるべきだということです。暫くすると、その境地に達するでしょう。しかし、それを物理的に見ることはできません。ただ、自分の中に硬さを感じるだけで、完全に空っぽで流れを妨げる何かを感じるのです。

 

  質問者:夢想や目覚める前にも見ることもできそうに思いますが。

 

  回答: それは可能です。夢の中で見ることもできます。

 

  質問:「壁」がなくなって初めて、霊的に生まれ変わることができるのでしょうか?その消滅は、「壁」の背後にあったもの全てを意識した時に起こるのでしょうか?それとも実際に自らを浄化した時に起こるのですか?

 

  回答: 霊的な再生は、「壁 」の向こう側にあった全てを完全に意識した後に起こります。それによって、自然の再生力が働き始めます。しかし、完全に意識するとはどういうことかに気づこうとしてください。それは、常に自分の反応にその知見を適用することを含みますが、それはそう簡単なことではありません。

 

  質問:自分の誤った傾向全てを完全に意識することはできますか?

 

  回答:その時は来なければなりません。皆さん全員にとって、この人生でその時が来るべきだとは言いません。それが可能な人はごく少数かもしれませんが、いずれは全ての人に訪れる筈です。その時が来るまで転生は続きます。しかし、今世でかなりの距離を進むことができるでしょう。それによって、後に続く人生のスピードを加速することができます。何故なら、あなたの魂は自己探究のプロセスによって充満するからです。それは第二の天性となり魂に残るので、あなたと言う存在は、未来の転生でその習慣の恩恵を受けることになります。

 

  私は自分の世界に戻り、皆さんに神の祝福と力を残します。ここにたどり着いた新しい友人達が、この道が提供する多くの答えを見つけられるよう、手間を惜しまず忍耐強く見極めることができますように。誰ひとりとして性急であってはなりません。祝福の内にある生命力の少なくとも粒子を受け取ってください。どれだけ吸収できるかは、全てあなた自身の心の状態にかかっています。苦々しさ、怒り、自己憐憫、これら全ては生命力を阻害します。それを忘れないように。さあ、あなたのドアを開けてみてください。親愛なる皆さん、祝福を、平和の内に、神の内にいなさい!

 

 

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PGLNo48
PGLNo49

Pathwork Guide Lecture No. 49

1996年版

1959年4月10日

 

 

道における障害:古いもの、誤った罪悪感、そして私は何者なのか?

OBSTACLES ON THE PATH: OLD STUFF, WRONG GUILT, AND WHO, ME?  

 

 

  友人の皆さんにご挨拶をいたします。皆さんひとりひとりに神の祝福を。霊的世界にいる私達は、人間を助ける機会をとても喜びます。そして、実際に唯一の助けがあり、他にはありません。それは、自らの幸福を妨げるものを自身の内に見つけ、神の法則を見つける手助けです。

 

  多くの人間は、神が存在するという考え以上に、邪悪な力が存在するという考えを笑って無視します。何故そうするのかは分かりませんが、残念なことに、悪や神に反するものは、皆さんの世界においては現実です。現実から目を逸らすのは理不尽なことです。勿論、自らの外側に悪を探せば、いとも簡単に他者の内に存在する悪を見つけられます。他者の内側で悪と闘うとしたら、それは間違った場所での闘いです。また、自らの外側に神を探せば、神を見つけるのは困難でしょう。従って、悪も神も、探すべき場所は自らの内側にしかありません。

 

  「悪」または「悪魔的な力」という言葉を聞くと自動的に、具体的で過激なものを思い浮かべるでしょう。闇や悪の力という範疇に何が属するのかを明らかにしましょう。それは極端なかたちで現れる残酷さや邪悪さだけではありません。それは、あらゆる形で現れ得る全ての、無知、誤り、真実からの逸脱です。何故なら、神は真実だからです。

 

  パスワークに取り組んでいると、自らのイメージの中に硬直や障害を見つけます。まさに未熟さと呼ばれるものです。人格のこの部分では、あなたは子供のままです。知識や成熟した洞察が欠けている為に、「悪く」いることの自覚的な意図がなくても、悪の力はあなたを捕えることができるでしょう。自己中心的でいれば、傷つくことから身を守れるし、報いももたらされるという根本的な誤認を通して、悪と破壊はあなたの内側で働くことができるのです。自己のイメージの中にあるこの根本的な誤りを見抜くことができれば、それは大きな一歩となります。それは簡単ではありません。何故なら、あなたは自身の感情的な自己中心性に気づいてはいないからです。自らの恐れは自覚しているかもしれませんが、それが自分自身への過度の関心であり、傷つくことへの恐れから来ていることに気づいていません。そして、個人的リスクを伴うように思える、外へと向かう自らの愛と感情を他者から隠します。

 

  自らのイメージと誤った結論を特定し、分析することで、最終的に共通項を認識するようになります。建設的な態度は次のようなものです。「今のところ、私は無意識の内に、利己心は報いをもたらし、傷つくことから私を守ってくれると信じている。私はどの様に利己的だっただろう?この観点からすると、私の結論はどのような点で間違っていたのだろう?正しい結論とは何か?」このような角度から内なる問題を見直せば、これまで隠れていた感情、反応、傾向を見つけた後に、人格に変化をもたらすことができ、それは最終的にあなたの人生を変えるでしょう。

 

  例外なく、全てのイメージには共通の特徴があります。その特徴の相対的な割合が、個人によって異なるだけです。どのイメージにも、劣等感、罪悪感、敵意、嫌悪、攻撃性、無知、恨み、幼稚な利己心、恐れ、他いくつかの妨害的な力が見られます。より原始的な人は、これらの特質を外側に表現し、外側の世界へと向けます。その人が転生を重ねて成長するにつれて、他者は上記の感情を悪いもの、間違っているものと考えており、そのような感情をあからさまに表すことは不利であると理解します。こうして、彼らは破壊的な衝動を隠し、それによって、より原始的な人の表層的な表現とは対照的に、自らの存在の奥底に障害や葛藤を創り出します。

 

  利己主義や自己中心性といった誤りが表にある場合、その反作用は外に向かって直接起こります。破壊的な力は、あからさまに他者へと向けられる為、公然の結果をもたらします。しかし、破壊的な力に鍵がかかった状態が保たれていると、それは自らに戻り、間接的な影響しか他者には与えず、間接的な結果しかもたらしません。あなたは、あからさまで直接的な方法は誤りだと認識しているのに、もう一方の間接的な方法も又誤りであり、同じく不利益な結果を招くと未だ認識していない為、無意識の内に間接的な選択肢の方を選びます。利己心を徐々に取り除くことを学ぶのが、唯一の解決策です。自らの意識の表面下で、感情が何処で完全に間違った形で自己中心性に方向づけられているのかを認識することから、その学びは始まります。それから、利己主義が周りの人だけでなく自分自身にとっても、いかに有害であるのかを学ぶ必要があります。利己主義は、全く正反対に見える表面的な反応で隠されていたとしても、有害であることには変わりありません。

 

  外的あるいは内的な「ねばならない」という理由で、より深い感情を遠ざけようとする限り、成功することはありません。この「ねばならない」は、自己強制を示すだけではありません。(ご存知の通り、感情は強制には応じません。)これは、不純な動機も示しています。望ましくない、褒められない性向を早く取り除きたいのです。何故なら、あなたの褒められない姿があからさまになるからです。そのような動機は、あなたが排除したいと思う利己主義そのものの証拠であり、例え強制的な要素から切り離したとしても成功することはありません。しかし、相手のことを誠実に考え、自らが傷つく可能性があったとしても、周囲に幸福と愛をもたらしたいという願いの為、自己中心性を取り除きたいと思うのであれば、その動機は純粋であり、いずれ成功するでしょう。神の助けによって、非常に破壊的な自己中心性が引き起こす誤りの連鎖から真に解放されます。利己的な感情を埋没させ目を逸らすのではなく、むしろそれを明らかにし注意深く観察してください。

 

  このようなことは全て、これまで何度も述べてきましたね。しかし私は今、皆さんの知性的な表面の知識にではなく、皆さんが自己探求によって明らかにしている感情のレベルに向けてお話ししています。これまでに認識したこと、これからも認識し続けること、このこととは見たところ何の関係もなさそうな感情的反応、この道でのワークで自分自身について見つけたこと、これら全てに当てはめてみてください。

 

  新しい認識と出会い、魂と人生に葛藤をもたらす感情的な反応を無意識のマインドから取り除く時、おそらく二種類の躓きのブロックに直面するでしょう。このような認識は、最初は明らかに直面するのが不快でしょう。ふたつの障害は互いに矛盾しているように見えますが、両方を経験する可能性があります。ひとつ目は、同じことをずっと(表面的に)知っていたのだからと、内側にあるものを認めようとしない傾向です。「これは既に知っている。何も新しいものではない。」と言って、すぐに片づけてしまおうとします。友人の皆さん、この危険には気を付けてください。発見の大半は、漠然と既に知っている傾向や性質に関わるものです。

 

  もし、探求によって既に知っている性向が再び示されるのであれば、それはあなたがその知識を適切に使っていないことを意味します。あなたは未だ、その知識を自らの存在全てのレベルに適用しておらず、完全に自分のものになっていません。この知識と他の傾向とが、関連づけられていないのです。この傾向の重要性、意味、結果は十分に認識されていません。従って、引き続き自らの認識と取り組む必要があります。全く知らないものを扱うかのように、新たに発見せねばなりません。そうして初めて、この間違った態度がもたらした連鎖反応、それが自らに及ぼした影響と、それが他者との関係性も損ね、その結果が内からも外からも跳ね返っていることを理解できます。

 

  ですから「ああ、これはもう知っている」という反応には注意してください。熱心に探究し、既に知っている認識に出くわした場合、初めて発見したもののように扱ってください。あなたが見つけたものであれば、それは再発見すべきものなのです。無意識から湧き上がるこの特別な傾向は、あなたにこう伝えています。「必要なだけ私を見つけるだろう。再び私を見つけられたということは、その知識を最大限に活用していないということだ。」

 

  この道の進歩を妨げるもうひとつの障害は、その正反対のものです。長い年月を経て、あなたは特定の自画像を形成してきました。あなたは、自分自身にも、友人や家族にも、ある種の良い資質や欠点を持つ人間として知られています。それに反するような傾向を自らの無意識の中に見つけると、「全く馬鹿げている。そんなことはありえない」と取り合おうとしないかもしれません。見つけたものと自分は正反対であると確信するあまり、単に意味が分からないのです。どちらも真実であり得るという事実を見落としています。「どちらか一方」で考えることに慣れていると、魂の中にある革命的な新事実を受け入れるのは難しくなります。認識によって示された通りの人間であれば、外側の既知の傾向は、非現実なものに違いないと考えます。従って、新たな発見を受け入れられません。しかし、特定の傾向が分裂している場合もあることを深く理解すべきです。自らの存在のある領域では、既に自分が知っている資質を持ち、別の領域、障害がある領域では、正反対の資質を持つこともあり得ます。

 

  優れた資質のひとつが寛大さであると仮定してみましょう。あなたは自分自身がどれだけ寛大なのかを知っています。あなたと接したことのある人も、誰でも知っています。ところが突然、実行しないにせよ、自らの感情の中の吝嗇や貪欲さに気づきます。あなたのことをよく知る友人に「これは本当ですか?私はケチなのでしょうか?」と尋ねると、彼らは勿論「いいえ、全くその反対です。」と言います。社交辞令で言うのではありません。あなたを寛大な人として知っているのです。あなたは全ての行為において、寛大さを示してきました。しかし、心の深奥には寛大ではない一隅があります。つまり、どちらも真実なのです。別の例として、あなたが非常に勇気のある人として知られていると仮定しましょう。勇気はあなたの人生の多くの場面で現れる非常に優れた資質かもしれません。あなたは臆病さの欠片もないと確信している為に、自らの臆病な一面に出会ったとしても、その意味が全く分からず、その発見を拒むかもしれません。

 

  親愛なる友人達よ、成長を妨害するこのふたつの障害に気をつけてください。自らの認識への反応が最も重要です。何故なら、自らの反応を通してのみ、成長と達成を判断できるからです。

 

  今夜もうひとつお話ししたいのは、罪悪感に対する反応です。以前にも述べましたが、誰もが罪悪感を持っています。全てのイメージには罪悪感が織り込まれています。重要なのは、二種類の罪悪感、不当な罪悪感と正当な罪悪感があることを理解することです。あなたは無意識の内に、不条理で不当な罪悪感を盾にして、その背後にある本当の罪悪感を隠すことがよくあります。何故でしょうか?心の奥底では、不当な罪悪感は馬鹿げていることを分かっているからです。まるでこのように言いたいかのようです。「ほら、わたしは罪を認めるけど、そうする理由は本当のところ何もないのだ。」本当に認めるべき、向かい合うべき、変えるべき、絶え間ない苦痛の声をあなたは取り除けません。それでも、向き合いたくはないのです。それ故、無意識に非難されない何かを探します。その結果、馬鹿げた罪悪感についての内なる声と議論して、自分を悩ませる意味はないと納得しようとします。勿論、これらは全て無意識の内に起こります。皮肉なことに、真の罪悪感は、それを隠すための壁として使われる不条理な罪悪感より遥かに小さいものかもしれません。

 

  不条理な罪悪感とは何でしょうか?それは、自らが完全ではないが為に感じる罪悪感の殆ど全てです。完全になりたいと思うことは賞賛に値します。嫌悪、恨み、攻撃性を、愛と無欲に置き換える努力はいくらお勧めしてもやり過ぎということはないでしょう。しかし、そうできるようになる前に、急いで今の自分以上の者になりたいと望むことより、まずは自分が感じていることを変えられない現状、現在の発達状態を認めて受け入れることが必要です。今のままでいることに罪悪感を感じていると、達成したい目標そのものが妨げられることになります。友よ、何度も繰り返しになるのは分かっています。でも、そうしなくてはなりません。私が強調したいのは、今完全でないことで自分を責めるのは不当な罪悪感です。そのような不当な罪悪感は、人間の人格の全領域に広がります。この道に取り組む皆さん全員が、この観点から自らのイメージを調べれば、不当ではない罪悪感が何処にあるのか分かるでしょう。

 

  もうひとつの不当な罪悪感は、集合的イメージによって煽られた性的衝動に対する反応です。知性の影響を受けている表面上ではなくとも、確かに感情のより奥深い所で、皆さん誰もが性への罪悪感を感じています。性的衝動への罪悪感は、不当で不条理な罪悪感です。性的エネルギーが愛と融合していない為、正しいチャネルで流れていないのかもしれません。あなたが性的衝動に対して罪悪感を抱き、その認識をできる限り抑制してきたからこそ、エネルギーが正しく流れないのです。その結果、性的衝動はあなたの人格の他の部分と共に成熟できず、温かく、愛に溢れ、与え、無欲な感情と統合することができません。それどころか、自分勝手な自己中心性の中で、それは大人になり切れないままです。従って、無意識の性的欠点としては、性的衝動が存在することではなく、むしろ性的衝動の誤った方向性や分離性にあるのです。性的衝動の存在そのものは、罪悪感を抱く理由にはなりません。自分には罪深いと思われるものを排除しようするのに排除できなくて罪悪感を感じるのは、誤解に基づいて行動しているからです。そしてそれを排除できないため、罪悪感が生じます。解決策は、性的衝動を排除することではなく、愛に対する恐れ、本質的には利己的である恐れを取り除くことなのです。自らに愛することを許せば、性的衝動は愛と融合し、セックスに関して罪悪感を感じる理由はなくなります。親愛なる友人の皆さん、このことを理解してみてください。無意識の思考が、どれだけ混乱しているかを理解するよう努めてください。利己主義と分離から生じる、愛することへの恐れへの罪悪感ではなく、皆さんは、神から与えられた力に対して罪悪感を感じているのです。自らの性的衝動を宇宙の唯一無二の現実と解決法である、愛と結びつけてください。愛と性的エネルギーを結びつける為には、まさにあなたが歩んでいる道によって魂を成長させるしかありません。

 

  よくある不当な罪悪感についてお話ししてきました。それでは、正当な罪悪感とは何でしょうか?利己主義が自分を守ってくれるという無知な信念から、作為であれ不作為であれ、他者を積極的または受動的に傷つけた時に感じる罪悪感は正当なものです。親愛なる友人達よ、現段階では不完全であることの罪悪感と、人を傷つける身勝手さへの罪悪感は、明確に区別してください。不完全であることそのものに、罪悪感を感じるべきではありません。しかし、いかに意図的ではなかったとしても、自らの不完全さ、無分別、無知から、他者を傷つけることへの罪悪感は、正面から勇気をもって向き合うべき正当な罪悪感です。私が説明したこの二種類の罪悪感のタイプの違いは微妙で繊細ではありますが、天と地ほどの違いがあります。このことについて、よく考えてください。非常に重要なことです。

 

  正当な罪悪感に対して、どういう態度を取るべきか?健全で建設的な態度とはどういうものだろうか?それは、次のように自らに言い聞かせることです。「過去にはどうしようもなかった。私は無知で無分別で利己的だった。自らの小さなエゴを忘れて、敢えて愛するには臆病すぎた。そのような態度で他者を傷つけたことを認め、今、私がどのようにして彼らを傷つけたのかを知りたいと思う。行為、言葉、思考、感情的反応、私がしたことでもしなかったことでも何であれ、相手を傷つけたことに違いはない。私は本当に変わりたい。神の助けを借りて、私は成功するだろう。その為には、私の態度が他者に与えた直接的、あるいは間接的な傷を明確に認識しなければならない。」そして、自分が他者に与えた傷について考えてください。理解する為の洞察力を与えてくれるよう神に求めてください。自らの「悪さ」を誇張し、絶望的な気分にさせる破壊的で誤った罪悪感へのプライドなしに、自己責任を担う勇気を持ってください。

 

  他者に与えた傷を認識する際に起こり得る、誤った三つの反応があります。ひとつ目は、自らへの絶望。自らに絶望するような、否定的で破壊的な罪悪感です。ふたつ目は、自らの正当化。そのような反応を自分は「強制された」という現実または想像上の過ちについて他者を非難すること。三つ目は、否定。自らが描く自己像に合わないかもしれない不完全さを見ることに対する恐れによる拒絶。その時々において、これらの反応のいずれかを体験するかもしれません。それぞれに注意しましょう!正しい方法を見つけましょう。自分が傷つけた人の気持ちになって考え、正当な罪悪感を引き受け、変わりたいと願い、愛することへの恐れを捨てることを望んでください。これは健全で建設的な態度です。自らの誤ったイメージの結論によって、意図せず、気づかずに他者に与えてしまった傷に気づいた時に感じられる痛みは、健全な痛みです。それは、自らの恐れや利己主義をなくす動機となるでしょう。

 

  親愛なる友人達よ、自らのイメージとイメージの結論について基本的な理解ができたら、自分自身を明確にする為に、正当な罪悪感と不当な罪悪感を区別するようお勧めします。直接的にせよ間接的にせよ、事実としてせよ意図的にせよ、自分の間違った結論によって他者を傷つけたかもしれない所を見つけてください。気づかずに他者を傷つけてしまったことを心から反省する勇気があるならば、その正当な罪悪感を引き受けて向かい合うことができるなら、それは思っている以上の強さをあなたに与えるでしょう。それは、健全で建設的な態度を育みます。それは、魂に生命力を呼び起こします。何故なら、何より生命力は、真実であり勇気だからです。正当な罪悪感を受け入れることは真実であり、それには勇気が必要です。そうすれが、生命力はあらゆる邪なチャネルに浸透し、影響を与えます。そして、無知や感情的な未熟さの為に内側にはびこっている邪悪な力が持つ破壊性の全てはゆっくりと、しかし確実に解消していきます。

 

  このテーマについてご質問はありますか?

 

  質問:最初の質問は、最後に言われた言葉についてです。感情的な未熟さの意味を分かりやすく説明して頂けますか?

 

  回答:感情的な成熟とは、何よりも愛する能力です。多くの人が、自分にはその能力があると思っています。勿論、感情的な成熟は程度の問題です。しかし、傷つくことへの恐れ、失望への恐れ、人生のリスクへの恐れがある所には、感情の成熟は存在しません。感情が成熟は、利己主義を知りません。勿論、これは地上での相対的なものであり、皆さんがいる存在領域では、絶対的なものはあり得ません。利己的であればある程、未熟なのです。外側のちょっとしたことに非常に無欲であっても、外側の無欲が、感情的な利己心または自己中心性を隠すこともあり得ます。自らの財産は手放したとしても、愛することへの恐れや、傷つくことのリスクの為に、他者に対して愛を出し惜しみします。従って、知的には成熟していても、感情的には未熟なのです。感情的な成熟とは、生きることへの代償を支払うのを恐れないことです。生きることへの代償には、時に傷つき、失望することも含まれます。成熟した人はこのことを知っており、それを望んで受け入れ、その価値を実感します。隔離された世界に閉じこもり自己中心的になると、他者だけではなく自分自身をも阻むことになります。感情的な成熟とは、自らの感情を恐れないことでもあります。否定的な感情がある場合、恐れてもその感情を消すことは不可能です。それどころか、その否定的な感情と向き合わない限り、その起源や原因を理解することはできません。そうして初めて、感情を抑制するという誤ったコントロールではなく、真のコントロールを手に入れることができます。感情的な成熟では、時折の傷つきも受け入れるので、ポジティブな感情も恐れなくなります。暖かさ、安らぎ、優しさで他者を包み込むことは、その後、自分に何が起こるのかより重要になるので、ポジティブな感情を出し惜しみせず、思い切って表現するようになります。

 

  感情的な成熟とは、完全な決断を下せるようになることです。ケーキをとっておくのと食べるのとは、同時にはできないことを受け入れられるようになることです。殆どの人は、無意識の内に両方を手に入れたい願い、それによって自分自身や周囲と対立します。感情的に成熟した人は、常に代償を払う必要があると知っています。感情的な成熟、あるいは感情的な健全さとは、自分の望みを知り、手に入れられるものを望み、その代償を払うことを厭いません。自分の存在のあらゆるレベルで自己中心性を放棄し、外側の反応とは正反対なものかもしれない無意識の反応の奥深くにまで達し、それを十分に知るようになることが、本当の意味での感情的な成熟の達成です。

 

  これらは普遍的な真実であり、あらゆる価値ある宗教や哲学で教えられています。人類は長い間ずっと、この考えに沿って生きるよう努力してきました。それでも、人々は自己欺瞞の危険を殆ど無視し、この真実と一致しない反応を隠す為に、何層もの意識の層を用いる習性から目を逸らしてきました。その為、多くの場合、外的には普遍的な真実に従って行動している人々を見ても、彼等の行動が本物とは感じられません。彼等は内的には、普遍的な霊的真実に反する多くの反応を隠しているからです。

 

  私が、皆さんを導く特権を与えられているこの道は、このような危険を遠ざけるものです。外側と内側の反応をひとつにしてくれます。ここで、私達の目的を明確にしておきましょう。私達は、皆さんの未発達な部分、利己的な反応において原始的な部分を見つけたいのです。それは、正直に感じている外側の反応と非常に異なる為、自らの利己主義に最初はショックを受けるかもしれません。この外側の反応が本当に誠実なものなのか、つまり自分ができる最善なのか、それとも殆ど意識している偽善なのか、魂を覗き込む為には、外的なマスクを解かなくてはなりません。そこには、自分自身に対する意識的な信念とは正反対の性向や感情が数多くある筈です。

 

  マスクによって得られると思っていた満足感は得られませんでした。最終的に、それがあなたを怒らせました。善のマスクを無意識に着けた時、その背後にあるものを隠そうとして逆の態度を取ったのかもしれません。そして今、あなたは報われなかったのは真の善意ではなく、偽りの強迫的な 「善意 」だったことに気づかないまま、虐げられ、利用されたように感じています。誤った結論を導き出すと、あなたはようやく自らに誠実になれたと信じ込み、反対側の極端に向かい、最初の無欲のマスクの後ろで見つけた部分を演じてみたくなるかもしれません。そうです、この部分はあなたの中に存在し、それは認める必要があるものです。しかし、反抗心や怒りも同様に表面的な層に過ぎないことを認識し、その背後を見てください。適切なバランスを保つ方法を知っているものを自らの内に見つけてください。本当の自分は、表面に現れる程に善良でもなければ、マスクの背後にある「悪い」もの、嫌悪、攻撃性、抵抗、怒りに満ちたものでもありません。あらゆる否定的な反応は、本質的には人生に対する戸惑いへのひとつの反応であり、誤った感情的な結論の結果です。自らの怒りや反抗を認め、長い間抑圧してきたものを体験してください。しかし、これらの手に負えない感情を全て行動に表すような人間であるかのように、それが自らの最終的な真実だとは考えないように。これらの感情を抑制することと、自らの人生への答えを知らず、自らの存在への鍵を未だ見つけていないことの症状として受け入れることとの違いを見つけてください。

 

  大事な皆さん、このアプローチを理解するよう心がけてください。そうすれば、不必要な落とし穴を避けることができます。人生への答えを見つける為には、自らの否定的な第二の層に留まるのではなく、それを認める勇気を行使しなければなりません。誤った結論に基づいて形成されたマスクの層の偽りを先に認識したように、次の層の偽りも認識する必要があります。そうすれば、発見した新たな層を誇張することなく、自らに正直になれます。以前の「無欲」が効果的でなかったのは、それが偽りだったからであって、本当の無欲が効果的ではない訳ではないことが腑に落ちるでしょう。このアプローチは、皆さんを感情的な成熟へと導いてくれます。そして皆さんは真の男と真の女にします。私は今意図的に、人間とは言わず、男と女と言います。何故なら、感情的に成熟していな人間は誰も、真実には男と女にはなることができないからです。

 

  質問:春になると特に、疲れを感じる人が多くなる理由を説明してもらえますか?

 

  回答:疲れとは常に、魂の有機体において生命力が誤用されたことを示します。魂の破壊的な力が抑圧され、その力が最終的に溶けてゆく正しい流れに導く意識の光が遮断された結果が疲れなのです。もし敵意や攻撃性が抑圧され、恐れも抑圧されて向き合われることなく、自らの理想にそぐわず罪悪感を感じるからという理由で嫌悪が無視されるならば、自己は破壊されます。自己破壊はその有機体によって様々な形をとり、様々な症状を引き起こします。疲労はそのような症状のひとつです。

 

  春は自然が蘇る季節です。生命力が成長する全てのものに注ぎ込まれます。植物、木、草、花、果実、野菜、動物界、さらには鉱物界にまでも。それは人間にとっても同じであるべきです。人間が宇宙と調和し、魂が停滞することなく成長している時、春は人を蘇らせ強めます。しかし、障害があるとそうはいきません。神聖な生命力とは異質な要素によって、障害は生み出されるのです。自己欺瞞は偽りであり、偽りは生命力に敵対します。抑制は常に自己欺瞞です。従って、自己欺瞞や抑制が存在していると、生命力はあなたを再生することができません。それどころか、ふたつの相反する力が魂の中で衝突すると回線のショートが起こる為、悪影響を及ぼすことになります。生命力はあなたの内へと流れ込み、また内から外へと流れ込むことを望んでいます。何故なら、魂の奥深くには宇宙全体、ひいては生命力の泉があるからです。しかし、相反する力によって封じ込められている為、生命力はあなたを満たすことができません。

 

  抑制や自己欺瞞がなければ、春はあなたを蘇らせます。疲労は、あなたが自分自身から知識や認識を抑制している症状です。疲労を、自らと向き合うことへの抵抗を打ち破る為の意志や努力を倍増させる動機にしなさい。そうして初めて、身体、魂、精神、感情、マインドにおいて、真に完全で健康になれるからです。内なる状態を示すどんな症状にも感謝しましょう。

 

  質問:私の質問はヨブに関するものです。彼は、人生で何を誤って、どんな欠点を持っていた為に、あれ程に苦しんだのですか?

 

  回答:自己認識の欠如、及びプライドや恐れがもたらす自己欺瞞のせいです。彼には、既に完璧であろうとする焦り、霊的な慢心に関わる焦りがありました。彼は、勇気と誠意をもって本能と向き合わず、本能を抑制する為に、善への欲求を利用しました。

 

  質問:一部の解説者が言うように、神の全ての恵みに値する家長として彼は自らを演じた、言い換えると、彼は独りよがりだったというのは本当ですか?

 

  回答:はい。それがプライドです。この点だけでなく、他の点でも彼にはプライドがありました。そして、極端な身勝手さを示しました。彼の身勝手さは、努力と自己認識の謙虚さでしか到達できない段階に既に達していることを望んだのです。

 

  質問:受容とは対極的な「ポジティブシンキング」の形での期待について、以前に話されたことをもう一度説明して頂けませんか?

 

  回答:これらの基本的な信心深い態度にはそれぞれ健全な形がありますが、極端に受け入れると歪みが生じます。正しく理解されたポジティブシンキングとは、全ては最終的に良きことへ向かうと知っているという意味です。何故なら、神聖なる力は絶対的な真実であり、破壊的な力によって征服されることはないからです。だからと言って、自らの過去と現在の誤りの影響を簡単に取り除ける訳ではありません。人格のどのレベルであっても影響は存在しており、あなたはそれを受け入れ、通り抜ける必要があります。自分自身と人生のリスクを肯定的に受け入れることが、最も建設的な態度です。それには、まだ完璧でないのなら完璧な人生を期待せず、今の自分を受け入れる謙虚さ、そして自らと向き合い、ありのままの人生と向き合う勇気が含まれます。

 

  ポジティブシンキングが誤用されると、今あるものと向き合わなくなります。基本的な内的完成がある程度存在する場合にのみ、ポジティブシンキングは成功します。それ以外の場合は失敗し、失望するに違いありません。解決するには忍耐と根気が必要な根深い人格的な問題を、単なる処方で一掃できると思い込み、焦る傾向があります。

 

  受容もまた、誤用されたり誤解されたりすることがあります。健全な形で受容することは、意志の働きだけで一度に変わることはできないこと認めて、自らの不完全さとその結果を担うことを助けます。それは、どんな不愉快な結果も健全な薬として受け止める謙虚さと忍耐力を示します。ただし、悲観的になり、不必要なネガティブな出来事を待ち望むという意味ではありません。その病的な感覚から、受容はマゾヒスティックな傾向や絶望感を助長し、不必要なだけでなく病的な諦観に甘んじるという自己欺瞞を生みます。それは間違った罪悪感を助長し、自らを罰することを求めます。

 

  この両方の基本的な信心深い態度の正しい形と間違った形を区別する必要があります。間違ったポジティブシンキングは、身勝手で短気です。間違った受容は、「苦難」を助長し、自らを犠牲者と見なします。極端を選ぶと、常にその対極を生み出します。つまり、健全な方法は中庸なのです。自らの不完全さの影響を受け入れ、勇気と謙虚さの精神でその体験を通り抜けることです。代償を払うことで、幸福と平和が見つかります。自分でいつも作っている十字架を自ら背負うことは、平安を与えてくれます。ポジティブシンキングの間違った解釈がさせようとする、感情を急に変えることは不可能だと受け入れてください。受け入れて初めて、感情は徐々に変わり始めるでしょう。

 

  質問:言い換えれば、仕事での失敗や成功を期待することとは、全く関係ないのでしょうか?絶望的な態度で仕事に取り組むかどうかは関係ないのですか?

 

  回答:態度とは常に関係があります。しかし、楽観的な態度が良い結果をもたらし、悲観的な態度が悪い結果をもたらすとは言い切れません。自分自身について明確でない限り、意識的にポジティブで楽観的な態度を取っていたとしても、無意識に対極の態度を取ったりする可能性もあります。これは様々な理由で起り得ますが、ひとつは、本当に望んでいるものがよく分からないということです。原因を理解していない為、この葛藤によってネガティブな結果がもたらされると、失望して勇気を失います。もう一方の極端な例では、失望を恐れるあまり、常にネガティブな態度を取る人もいます。ネガティブな態度で身を守り、失望を避けようとします。このように、ポジティブとネガティブどちらの態度も、その奥には別の何かが隠れている可能性があります。

 

  重要なのは、意識的に考える何かではありません。無意識に感じる何かに気づけるようになることの方が遥かに重要です。単なる処方的な考え方では、意識的に望むものを効果的に手に入れることはできません。内なる自己、無意識の反応、内なる葛藤と問題を理解する必要があります。そのような理解を通じてのみ、来たるべき冒険、希望、人生における何に対しても、正しい態度を最終的には見つけられるでしょう。

 

  正しい理解が得られるまで、中立的な態度をお勧めします。楽観的または悲観的にならず、身勝手さを手放してください。ただ、自らに起こることから学ぶことを望んでください。どんな出来事も、それは自分が今どこにいて、どんな問題に取り組むべきかを示します。どんな出来事も、自らの無意識な反応の投射であると考えられます。感情を観察すれば、最終的には自分の内側に突き抜け、より完全な自己理解に必要な認識を得られるでしょう。今あなたに起きていることは、殆どがあなたのイメージの結論が作り出す繰り返しのパターンです。外側の出来事の内側にある根源を認識するよう注意を向ければ、人生への鍵が与えられます。これまで、人格全体がおそらくそのような認識と戦ってきたのでしょう。

 

  魔法の鍵はありません。無意識の動機と傾向を理解しない限り、何事も本当に解決することはありません。外側の対策が時には効果的に思えることもあるかもしれません。しかし本当のところ、あなたの人生の問題は、あなたが自らを見つめることへの抵抗に打ち勝った時、つまり内なる防御の壁を下ろした時に初めて解決できるのです。何を守っているのですか?何故自らを守る必要があるのですか?内側でこの抵抗や戦いを感じる時、このように自らに問いかけてください。皆さん、私は今、あなた方に語りかけています。そうすれば、人生の様々な場面で正しい態度を見つける為に、外的で強制的なルールは必要なくなります。そのようなルールは松葉杖なのです。

 

  無意識のマインドを知ると、ただ自然に存在します。人生をそのまま受け入れます。失敗もするし、成功もするでしょう。人生はその両方をもたらす筈だし、皆さんにはそのどちらにも対応する力が備わっています。その両方が皆さんを強くします。もし人が失敗や失望から身を守る為に、正しい態度を取ろうと心配するとしたら、それは失敗や失望を非常に恐れている印です。それ程に恐れるのは、健全な抵抗が欠けているからです。これは病気に対する抵抗のような、ポジティブな意味での抵抗です。自分自身を探究する道で解消していくべき抵抗のことではありません。恐れは病気なのです。

 

  親愛なる友人の皆さん、今、神の愛と真理の力が与えられています。皆さんに注がれています。それはあなたのハートを貫き、満たします。真実を喜びなさい。恐れていた真実、嬉しくはないかもしれない真実を見いだすことの喜びを知りなさい。これは大きな喜びなのです。この健全な活動を学んでください。その中で強くなり、あるべき姿で人生と出会ってください。このようにして、愛に満ちた男と女になります。平和の内にいなさい。祝福されていなさい。神の内にありなさい。

 

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