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 無料公開ガイドレクチャー(日本語版)

 

Pathwork Guide Lecture No.2    1996年版    1957年3月25日 

 

決断とテスト 

DECISIONS AND TESTS

 

 

神の名の下に歓迎します。みなさまに神の祝福を。 

 

 親愛なる友人たちよ、神の愛は命ある全てのものに行き渡ります。霊的な全てのものが、循環し続ける完全性の内を動き続けるのと同じように、それは永遠の循環の内でそれ自身と出会い続ける生命溢れる力であり、光のビームです。生きとし生けるものは誰しも、この愛というパワフルな光線を意識的にせよ無意識的にせよ、探し求めています。この愛を感じ取りたいというロンギング(憧憬)が人間とスピリットを駆り立て、引き寄せ、刺激するのです。彼らはそれぞれの発達の状態にしたがってこの憧憬を理解していき、結論を出し、意思と考えを持ってそれを遂行しようとします。あるいは、これらの感情を正しく解釈することなく、自らを通してこの駆りたてる力を表そうとし、失敗につながります。この感情とこの探求の本当の性質をきちんと理解しなければ、その人は誤ったゴールと偽りの充足感を探すことになるでしょう。けれども、それまでの不可解なこの憧憬の感情が一体何であるかをすでに理解している発達段階に到達するならば、その人たちはすでに大きな一歩を踏み出していると言えます。彼らはまた、進むべき方向もわかっているでしょう。ゆえに、自分の魂の力について誤解したり間違ったりすることも少なく、メッセージも正しく解釈されるはずです。 

 

 神への愛、神に対する憧憬は、すべての人間の内にある駆りたてる力です。いまだ神を見つけていない人、自分は神など信じていないと思い込んでいる人ですら、その魂の内側にこれらの強い流れを密かに抱いているのです。霊的な発達における完全な転換を経験し、意識の内に神を認める人は、新たな人生へと入っていきます。これは一度の転生で起こり得ることです。このドアから足を踏み入れる人は誰でも、既により明るい光の世界を生きることとなります。もっとも、その先にも多くの通るべきゲートはありますが。 

 

 殆どの人が、この地上での人生を、理解しがたい不可解なものだと思っています。彼らはその意味も目的も認識することができません。なぜなら彼らは、肉体的な目だけでものごとを見ているからです。自己の霊的な目との接触がまだ取れていないのです。従って、彼らの悲しみ、試練、孤独、すべてが意味のないことのように思えるのです。しかし、人生とはいくつもの学びの期間の内のひとつであり、長い鎖の内のひとつの輪であることを理解すると、あなたは、最初は感覚的に自らの霊的な目との繋がりを感じ、その後、それをより深く十分に理解できるでしょう。その時、あなたのゴールは最早、今のあなたという存在が持つひとつひとつの願いが叶うことで直ぐに得られる幸せではなくなります。代わりにあなたは、自らのヴィジョンを“全体”へと向けることでしょう。そうすることで、あなたはこの人生が奪い去られることに耐えられるのです。そうすることであなたは、“テスト”にパスし、存在のより高い次元へと、いかなる外的な力によっても奪い去ることのできない永続的な幸せの中へと入るのに必要な条件を満たすことができるのです。 

 

 さて、この第一のゲートをパスした人たち、これらの根本的な真実をすでに認識している人たちについて話をしていきたいと思います。そのような人たちは、多くの場合、彼らが進歩できるようには実は進歩していません。結局のところ、それぞれの人がどれだけ早いスピードで進むかは、その人の自由意志しだいなのです。ある人は、ただ流されるように生き、一つのことを克服する、あるいは成就するために、それを繰り返し経験し、何度も転生しなければならないかもしれません。これらの基本的な真実を理解している別の人たちは、違った行動を取り、霊的な成長をまっすぐに目指すでしょう---これは世俗的なゴタゴタから目を逸らすという意味ではありません。それどころか、世俗的な問題と霊的な問題というのはとても密接に関係しているのです。世俗的な問題というのは、実際、ある霊的な問題の現れであるのです。その違いは、どのようにして問題の解決法を探すのか、どの観点から見るのかという点にあるだけです。霊的なレベルで問題を解決する時にのみ、世俗的な問題に関する真の解決法を見つけることが可能となります。 

 

 みなさんがあれやこれやを知っていることはわかっていますが、まだ、自分自身の内にあるつながりを知覚できてはいません。誰もが神を未だに探し、自らの外側の何処かに知識を求めています。たとえば、外側の知識を増やすことを通じて---勿論それは良いことですが、十分ではないのです。途切れることなくバランスを取り続けることが求められます。学んだ知識は常に個人的なレベルで使われ、消化され、内側で評価されるべきです。そうすることで、しっかりと調和が作り出されるのです。真の進化を成し遂げるためには、内側と外側、両方の側から成長しなければなりません。新しい外側の知識は、古い知識が内側で統合され、吸収された時に身につけられるべきものです。知識は、理論上だけであるべきでは決してないのです。実際に実践に移し、個人的な人生に根付かせるべきものです。このようにして、ひとりひとりが創造の本質についての、霊的法則の知識を広げていく必要があります。けれども、外側の知識というのはひとつの側面に過ぎず、それが全てであると受け取ってはなりません。別の側面、つまり内面的な吸収統合がなければ、あなたの進化には調和も見られなければ本当の充足感もなく、ゆえにまったく進化しているとは言えないのです。 

 

 あなたは自分自身を知り、自分自身に注意を払い、自分自身を研究し、そして抵抗を克服するための克己心を身につけなければなりませんが、初めのうち、それはとても難しいでしょう。あなたが自分に対して持つありとあらゆるイメージや考えを観察しなければなりません。それらはあなたに媚びてくるでしょうし、簡単にあなたを騙します。それからあなたはそれらを放棄し、修正を加えねばなりません。このワークは一人ひとりにとって何か特別で、何か違ったものですが、多くの場合似たような、あるいは同じものでもあり得ます。人間の霊的な進化について話す時、私たちはそれを、あなたがたひとりひとりの、何かとても個人的なものという意味で話しています。親愛なる人よ、あなたは自分自身を探り、このように尋ねるべきです。「それがどんなに分かりにくく、内面的なレベルであるとしても、たった一つの現実、霊的法則に従って反応していない場所がまだ私の中にあるとするならば、それはどこに隠されていますか? ある事柄についての透明さ、明晰さを欠いているのは私の中のどの部分ですか?」 

 

 このような自省は常に行われるべきです。そうすることであなたはゆっくりと、内側の未だ正しくない部分を取り除くことができ、そうすることで今より幸せになるのです。自分の中にどんな障壁があるのかをはっきりさせなければなりませんし、そしてまた、それらを明白にする為には、内面の探求と真の内的意志、そして努力が必要です。あなたが人生の何処かの領域で幸せに欠けているのは、ある特定の内的なブロックが直接関係していることに目を開かなければなりません。内面の障壁を取り除くことなくあなたの望みが単に聞き入れられたとしても、あなたが本当に幸せになることは決してないでしょう。それは永続的な幸せではないのです。いつか消えていくものであると言わざるを得ません。内面の調和を築き上げた時にのみ、神の法則の内にある神との関係性があなたの内側で完成し、あなたの魂は、幸福を包含するのに十分なまで成熟するのです。 

 

 多くの人は、神の世界とのコミュニケーションを怪しいものだと思っています。彼らは言います「ええ勿論、そのようなコミュニケーションは可能だと信じています。でも、それが私にとって何の意味があるのですか? 何の為に私にそれが必要だって言うのですか?」私の答えはこうです。このようなコミュニケーションは、あなたの更なる発達の為に必要な部分、つまり外側からの吸収を与えてくれます。さらに、ヒントや助けを、探求と発見の方角を、そして発達のために必要なふたつ目の部分である、「外的な知識を内面の問題に当てはめること」を教えてくれます。その為には、具体的な助けとは別に定期的な励ましと強さ、祝福を受けることが必要です。それは、スピリットとのコミュニケーションを通じて与えられるものでもあります。いつの時代にも、例外的な、他の人たちを導くことのできる賢い人間が存在します。このような人達も、ちょうどミディアム(霊能者)がそうであるように、神の世界とダイレクトにつながっています。その人は、神の世界の道具となるのです。ある場合にはインスピレーションを通して影響を受け、またある場合には神の世界が直接的に作用します。けれども、どんな形であるにせよ外側からの助けは、それなしではあなたの成長が叶わない重要な要素です。このようにして身につけた知識は、人生の素材として、人生を構成する基礎的な要素として、あなたが自分の人生を自分自身のやり方で作っていくのに使うことができるのです。 

 

 前回のレクチャーで、「決める」ということについて簡単に触れました。正しい行動が何なのか、どうしたら常に知ることができるのかと尋ねられました。それはみなさんがたが学ぶべきことのひとつであり、そしてまた時に難しく感じられることでもあります。多くの人は外面的レベルにおいて「決める」ことはできますが、それすらできない人もいます。けれども、殆ど全ての人は、内面で「決める」ことができません。感情の動きと内面の感情的反応が、内面で「決める」ことをまったく不可能にさせているのですが、そのプロセスが隠されているが故に、そのことすら誰も知りません。自分の再奥にある動機と感情を重要視しはじめた時にのみ、自分の中で一体何が起こっているのかに気づくようになります。そうすると、内面的に「決める」ことができるようになっていくのです。内面的に「決める」ことのできない状態は、直接的に他者と関係があるように見える問題としてだけでなく、自分の内的態度、感情、そして反応の中に現れてきます。 

 

「決める」ことをしない人は、自分の魂の憧憬に従いたいと心から願い努力している人と同じであることが多いものです。とはいえ、彼らは「正しいこと」をしたいと願うあまりに、何かをすることから尻込みします。何故なら、そのことが神の機嫌を損ねるのではないかと思ってしまうからです。間違ったことをするのを恐れ、結果、何もしないのです。「決める」ことをしないことを自分が「決めて」いるということを理解していないのです。世界と、そしてあなたがたが時間と呼んでいるものは、決して静止することがありません。すべては生命の流れの中にあり、あなたが何をしようと、あるいは何もしなかろうと、必ずその先に結果が現れます。「決める」ことから逃げている時、それはあなたが自分の魂への鍵をまだ見つけていないことを意味しています。あなたは、おそらくそれに気づくことなく、恐れの中で生きているのです。もう一度申し上げますが、あなたは無意識に神か運命があなたに代わって「決めて」くれることを信じ、願い、あなたという船の指揮を執ることをしていません。時にそれが起こることもあるでしょう。しかしながら、概して、神の世界の干渉は認められていませんので、あなたが学ぶべきことのひとつは、自分自身の決断に責任を持つということです。真実を覆い隠し、混乱を作り出している暗い雲に飛び込み、風穴を開けることをあなたは学ばなければなりません。あなたは自分自身の努力によって、個々人の霊的なチャレンジによって、自己認識を深めることによって、学んでいかねばならないのです。 

 

 抵抗を克服しようと努力することは、霊的なヴィジョンを研ぎ澄ませる唯一の方法です。この方法においてのみ、自分自身の魂の内に何が存在するかを、周囲に存在するものを知覚するのと同じように知覚することができます。とても込み入った複雑な状況であったとしても、あなたはそれを評価し、判断することを、そしてあなたと他者の何が今危険にさらされているのかを理解できるよう学ばねばなりません。これまでに解決されていない問題を解決することを通じ、最大限に霊的成長と浄化を成し遂げることを学ばなければならないのです。頭を砂の中に埋めるダチョウのように問題から目を背けようとする代わりに、あなたは問題と真正面から向き合う必要があります。 

 

 問題を引き受けた後、どちらの方向を選べば良いのかを見抜く力がまだあなたにないが故に「決める」ことができないという結論に達するならば、あなたはそれまでとは全く違う状態にあります。そうしたら、神にインスピレーションと必要な情報を求め、それを受け取る準備をし、それに従って行動すれば良いのです。チャレンジし、努力することで自分自身の準備ができた時、必要な理解がやってきます。「決める」ことを避け、問題にかかわる全てのことに蓋をし、完全に目を逸らすのもひとつの方法でしょう。けれども、そのことと、真実を探し求め、正しい道を選ぶ準備が自分にできるまで更なる努力を重ね、それまでは「決めない」ということを意図的に決めるのは、まったく別のことです。そして、その決断が真に正しいものである時、疑念の影などこれっぽっちもあなたの中にはないことでしょう。その結果もたらされるのは、あなたの魂の中で永遠に続く平和と調和です。この方法によってのみ、あなたはあなたという船のキャプテンとなるのです。 

 

 自分を甘やかし、自分に都合よく見ないように隠していること、そしてあなたの自己満足を助長し、もっとも抵抗の少ない道へとあなたを誘う全てのことを切り捨てる時にのみ、あなたは、その時々に自らの置かれた状況の純粋な真実を認識し、自分にとって正しい行動とは何であるのかが分かるようになります。「決める」ことを避け続ける人生を生きる時、結果として起こるのは、反応と連鎖反応です。言い換えるなら、次の人生でもつれた結び目を解き、「決める」ことを学ぶための霊的な学びが一層難しい形で起こってくるのです。ゆえに、これらの言葉を受け取るみなさんがたには、このことをよくよく考えてください。「決める」ことを避けることは、霊的なレベルのみならず、純粋に世俗的な事柄においても、大きな痛手と損害を引き起こすことを理解してください。利己的なエゴの観点から見ても全く同じであることが、一度でも自分の「先を見通す力のなさ」を乗り越えれば分かるでしょう。霊的法則に十二分に従うことによって、自分の手であなた自身の幸せをつくり出してください。この決意がなければ、どんな恩恵も受けることはできません。 

 

 さて、何か質問はありますか? 

 

 質問:低次の領域にある魂は、より強い痛みに苦しむように本来なっていると思うのですが、あらゆる邪悪なスピリットの中で最も邪悪な魔王ルシファーが苦しんでいないように見えるのはなぜですか? そう見えるだけでしょうか? 

 

 回答:あなたがた人間は常に、痛み以上に酷いものはないと考えますね。しかし、もっと悪いものがあるのです。つまり、魂が痛みを感じることのできるより前の段階です。あなたが痛みを感じる時、あなたは既に神に一歩近づいています。このことを説明したいと思います。そうすればあなたは創造の素晴らしさ、壮大さを感じ取り、暗黒の力が究極的には神の手の内から出ることなく動くものであると知るでしょう。 

 

 例を挙げましょう。ルシファーには忠実な部下がいますが、そこにも、強いものと強くないものというヒエラルキーが存在します。もし、強い力を持った部下が、ある人間が自らの自由意志で誘惑に抵抗し、神の道に従おうとすることを阻止するといったような、ルシファーから課せられた任務に失敗したならば、その部下は力をどんどん失い、他の邪悪なスピリット達によって今度は自分が苦しめられることになります。そして、自分が極度の痛みを感じていることに気づいた時、彼は神に近づくのです。その時にこそ、神を求める気持ちが最高潮に達するからです。ゆえに、暗黒な領域の「より低次に」沈んでいけばいくほど、実際には「より高次に」上がっているのです。痛みから遠ざかれば遠ざかる程に、内面の不調和は拡大していきます。そして、ルシファーは最大級の不調和の内にいます。不調和が増す程に、内面では調和を求める動きがどんどん強くなります。これは、そのような存在が、自らの内なる調和を痛みがなくとも増大させていくことのできるポイントに達するまで続きます。その後、様々な抵抗の克服がその痛みに取って代わるでしょう。それは最終的に、必然的な流れとして、抵抗を何とかしようと必死で努力し続けることが必要とされなくなるまで続きます。気が動転していたり、反抗心を感じていたり、精神的にいくつもの方向に引きちぎられているように感じていたり、非常に不調和な感情に支配されていたりする時というのは、本当の意味で痛みの中にいる訳ではありません。そうではなく、混じり気のない痛みを経験する時、あなたは自分がどんなに内面の調和に近づいているかを思い出します。そしてその時に、皆さん方の誰もが、このプロセスにうすうす気づくことができるのです。従って、神の法則がその影響を広く及ぼせば及ぼす程に、ルシファーの部下の数は減っていくでしょう。 

 

 質問:とても難しい状況下に置かれている時、神に見放されたと感じたり、高次の領域からのサポートがないことに気づいたりするのはなぜですか? 

 

 回答:それはしばしば起こります。テストされている時、あなたは最初、霊的な守りという助けを得ながら目的を果たすことを学びます。次に、あなたを守るこの力はいくぶん鳴りを潜め、あなたはいわば、神聖なるものと暗黒の力のそれぞれから同じだけ離れた所に、一人残されます。あなたは自分の足で立たねばならず、自分自身の意志で正しく動かねばなりません。そしてそのテストに持ちこたえたなら、そのあとは、暗黒の力が周期的にあなたの至近距離まで近づいてくるようになります---神聖なる愛は常にあなたのすぐそばにあり、全てがうまくいくことを見ているのですが---そうしてあなたは自分自身の足で立ち、自分を保つことが一層うまくなっていくのです。そうなったときにのみ、あなたは神が完全にあなたを信頼するに足るほど強くなります。そうなったときにのみ、あなたは自分のローアーセルフをコントロールできるようになったことを、自分の弱さをコントロールできるようになったことを確信します。そしてそれらこそが、この種の“テスト”に求められていることなのです。これは、ひとつのプロセスです。そして、いわゆる「好ましい時期」において、次のテストに備えて新たな強さを身につけ、先のテストで成し遂げた成果を享受するのです。 

 

 霊的法則という武器を利用してそれらと戦うかどうかは、人それぞれです。最強の力を持つものであったとしても、邪悪なスピリットが、あなたの許しなしに、あなたに何かをすることはできません。自分のローアセルフと戦う瞬間、あなたは自分自身を完璧に守っています。これこそが、あなたのすべきことです。戦いなさい!言うまでもないことです。自分自身の意志を、誰かの助けなしで、自分が自分の為に立ち上がるのに使う準備ができた時にこそ、人間は孤独を感じるのです。あなたの内的意志は、もっとも重要な要素です。けれども、あなたが成し遂げることのできる以上のことを期待すべきではありません。 

 

回答:でも、苦しみが深すぎて、この力を呼び起こすことができない人たちもたくさんいます。たとえば、決して治ることのない病気に罹っている人です。そのような人は、何をすべきなのでしょうか? 

 

答え:まさしく、ただ平均的な人生を生きるより「テスト」をクリアする経験を頻繁にする人がいるのは確かです。運命によって特に目をつけられ選ばれたそのような人達は、多くの場合、それらが何であるかを受け入れ、何が必要なのかをそれらから学ぶこと、そして、自らの運命に逆らおうとするのではなく、自らの苦難を進んで引き受けることによって「テスト」をクリアする能力をより多く備えています。何度でも強調したいのですが、神は、その人が耐えられること、果たせること、もしくは耐えられるであろうこと、果たせるであろうこと、そして本人がそう望む場合にしかお与えにはなりません。あなた方人間が、他者の潜在的な能力や、彼ら自身の能力をどうするかについて、つまり彼らがその能力をまるで使っていないとか、間違った方向に使っているとかをジャッジすることなどできません。更に、あなた方はいつも、死と痛みはあなたに起こり得る最悪の出来事であるという誤った思い込みにしがみついています。ここで申し上げますが、肉体的な死を罰であるとみなすのは、絶対にあってはならないことです。最悪なのはスピリチュアルな死で、それは最も抵抗の少ない道を進んだ先の突き当たりであなたを待っています。 

 

 質問:霊的な死とは何ですか? 

 

 回答:霊的な死とは、意識的であれ無意識的であれ、闇の力へと自分自身を明け渡してしまうこと、言い換えれば、自分自身を神の世界から切り離してしまうことです。つまり、神から分離しているスピリットが存在するだけでなく、神から分離している人々も又、存在するのです。彼らが神に属する集団に入ることはありません。なぜなら彼らは抵抗がもっとも少ない道を好んで歩き、 自分の弱さに屈しがちであるからです。故に彼らは、死者の国に属するのです。これが霊的な死です。けれども、この状態は永遠に続くものでは決してありません。

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PGLNo2
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Pathwork Guide Lecture No.4  1996年版    1957年4月22日

 

世界への疲労感

WORLD WEARINESS

 

 

 ようこそ。神の名の許に、皆さんに祝福を送ります。

 

 親愛なる友人たちよ、私が今回このテーマを選んだのは、皆さんのうち幾人かが、世界への疲労感について考え始めているからです。世界への疲労感とは、時としてあなたの中に忍び込む表現できないロンギング(憧憬)、また憂鬱な気分や悲しみを意味します。

 

 この感覚は様々なところに端を発しており、「世界への疲労感」の原因には実に多くのことが考えられます。意識していてもいなくても、全ての人間の内には、魂の本当の故郷に帰りたいというノスタルジックな思いがあるのと同様に、神や完璧性への思慕もここで一役買っています。何故なら、あなたはこの地球上で一人の旅人に過ぎず、ここはあなたの本当の故郷ではないのです。しかし、これらの思いは、あなたの抱える憧憬の大きな理由ではありません。その背景はより複雑で、それこそが今から私が皆さんにお話したいと思っていることなのです。

 

 人間の魂が神聖なる法則から逸脱する時、(それが無意識であればある程、逸脱の程度は大きくなりますが、)漠然とした悲しみと憧憬の感情に捕らわれることがあります。あたかも、ハイヤーセルフが「何かが違う」と人に感じさせ、気づかせる為に与えた感情のようです。例えば、人が本当の意味で愛することに心を開く方法を知らないかもしれません。つまり、人間としての生活に潤いを与える感情を働かせることができないのです。それ結果、正しく満たされる形で愛が返って来ることもありません。従って、疲労の感情が、その人の魂の答えとなります。

 

 人間は大抵、自らに愛する能力があると考えます。それは真実かもしれませんが、魂の中の歪みがそれを妨げるが為に、その能力が正しいチャネルに入らないのです。エゴが目立ち過ぎることを恐れる等、魂には様々な種類の歪みが存在します。

相手が最初に愛してくれるという「安全」で「お得」な条件の下であれば、人間は確かに愛を切望し、与えることさえ厭いません。しかし、このような状態だと扉が閉まってしまうだけでなく、本人の孤独が続くが故に、「世界への疲労感」の感情を引き出す魂の歪みが生じるのです。

あなたの中の恐れはこう言います。「私が何の確信もなく最初に与えたら、私のプライドは傷つくかもしれない。私は傷つけられ、他者は私に痛みをもたらすかもしれない。」

 

 「失望」に対する恐れは、過敏な神経の象徴です。そして、過敏な神経は、間違った形の自尊心の現れです。この内面のプロセスはエゴを中心として回っています。これによって真の愛の流れがブロックされ、まったく逆の方向へと流されてしまうのです。そして、この流れのブロックは神聖な法則に逆らっており、それ故に魂が損害を被ることとなってしまいます。

心の中のスイッチをリセットした瞬間、あなたは自分の身の上に起こったこと、また起こるであろうことを過剰なまでに深刻に受け止めなくても良くなり、自分の愛を自由に与え、流すことができるようになるのです。そうすることで、あなたの愛は本来の純粋な姿に戻ることができます。何故なら、かつて失い、そして長い間求め続けてきた全てと共にある「主」が、虚栄心やプライドと共にある「我」よりも重要になるからです。そして満たされない思いや、漠然とした切なさは消え失せるでしょう。何故なら少なくともこの点において、あなたは人間の本質である潤いと活気に満ちた働きを実現しているからです。言い換えれば、神や自らのハイヤーセルフと調和しているからです。

 

 この特定の誤認がある人のことを利己的であると言っている訳ではありません。誤解されないように注意してください。そのような人が、既にこの問題を解く鍵を見つけた人よりも利己的ではないことさえあるでしょう。「利己的」と「自己中心的」とは区別しなければなりません。どちらも間違ってはいますが、その影響は必ずしも同じではありません。そのような人々が心が狭く、与えることを嫌がっていると言いたい訳でもありません。ただ、無知であると、純粋な感情は病んだローアセルフを通って、誤った方向へと導かれるということです。

 

 また、そのような人が全く愛することができないという訳でもありません。自らの愛の全てを捧げられる相手が、周囲にいるかもしれません。それでも、彼らはこの正体不明の疲れた感情を避けられないのです。というのも、もし彼らの感情のエネルギーが正しい方向に向けられたなら、それが例え少数の最愛の人達に向かうのみであっても、彼らの愛は少数の人達だけに集中するのではなく、ポジティブな感情を引き出してくれる人誰に対しても向かうからです。そうしたら、彼らは完全にコミットした愛情から手を差し伸べ、リスクを恐れず、自分の感情と同じように相手の感情を大切にするようになります。

 

 大事な友人たちよ、これら全てを当然だろうと考えてはなりません。あなたが知識や原理としてこれに同意したとしても、特別な場合を除いて、感情は遅れて感じられるからです。勿論、相手によってあなたの愛の形は変わります。ある特定の数人の仲間を、その他の人達より愛することを当然だと考えていませんか?発達の段階がこの輪廻のサイクルにとどまり続ける限り、それとは違うことは信じられないでしょう。経験上あなたは、相手によって愛の種類が違うことを知っています。母親に対する愛と配偶者に対する愛、兄弟に対する愛と子供に対する愛、父親に対する愛と友人に対する愛、そして、ある友人とまた別の友人に対する愛さえも、それぞれ違うことを知っています。愛の波の種類は無数であり、魂の中にはそのすべてが含まれます。色、陰影、音、そして匂いまでも、ひとつひとつの全てが異なります。病んだエゴが邪魔をしない限り、本来、人間は様々な種類の無数のエネルギーの波を創り出すのに十分なだけ大きな「他者を愛する能力」を持っているのです。

 

 誰かをとても愛している時、あなたがもっと愛したいと思っている他の誰かから愛を奪っており、同じく誰かの自分への愛も奪われるといった漠然とした感覚を抱くかもしれません。つまり、愛がシェアされる時には、誰かひとりが他の人の為に少なく愛されるに違いないように思えます。しかし、健全な愛を分割することはできないのです。愛が減ることは決してありません。あなたが生み出す愛が多い程、それはどんどん倍増されていきます。私は今、性とエロスについては言及していません。これは永遠に続く神聖な法則に沿っており、皆さんは自らの内に在る真実を見出さなくてはならないのです。愛は神と共にあります。数えきれない神の子供達を愛し、常により多くの愛を与え、減ることはないのです。

 

 真正で健全な愛は、どのように成し遂げられるのでしょうか?愛することを自分に無理強いすることによってではありません。自分を偽ることない内省を通して、間接的に到達するのです。あなた中のエゴや神経質な部分、うぬぼれ、プライドを見つけ出し、これらがどのように作用しているのかを考えてみてください。これを理解することで、あなたは真の愛の達成への第一歩を踏み出したことになります。そしてこれは、切なるロンギングの感情をすくいあげ、解放するための第一歩でもあります。ロンギングの感情は、悲しみ、郷愁の念など、人によってそれぞれです。自分の魂を深く見つめ、自分の内側で全てが正しい訳ではないと感じることができれば、その側面から、あなたの魂が癒される必要があると分かるでしょう。

 

 魂が不健全な為「間違った」やり方で、人がその愛を誰かひとりの相手に向ける時、この愛は自分と相手の双方を弱らせてしまいます。相手の愛を失うことを恐れるあまり、自分自身に正直になれず、その結果、自分自身を辱め、相手からも辱めを受けることになります。これは、力からではなく、弱さや恐れといった不健全な方法を通して起こります。実際に、自己卑下を真の偉大なる愛のしるしだと信じている人すらいるのです。しかし、このような人たちは自己欺瞞の中に身を置いています。そうでなければ、自尊心を傷つけられることを恐れ、強い感情から自分を切り離しているのです。

 

 あなたが健全で真正なやり方で愛することができれば、もう二度と、自らの尊厳を貶め、傷つけることはありません。何があっても自分の尊厳は守られるべきだという拘りを諦めてこそ、諦める準備ができていた尊厳を勝ち取ることができます。これが不変の霊的法則です。プライドや尊大なエゴを放棄することと、自分自身に対して真実の姿勢を貫くことを放棄することを明確に区別しましょう。自分に対して真実でいることをやめる必要はないのです。理解するのは難しいかもしれませんが、これについて瞑想することで、違いを認識できるでしょう。もし、愛する人の愛を失うことへの恐れを手放し、自分自身に対しての誠実さを守れれば、自分のちっぽけなプライドが傷つくことや不利な立場に立つことを恐れず、正しいやり方で愛することができます。そして、このような人が酷い扱いを受けることは決してありません。失望し、裏切られることもあるでしょう。しかし、自尊心を傷つけられることはないのです。真の愛があなたの尊厳を無視し屈辱を与えることは決してありません。真の愛の下では、自分自身の為に自らの尊厳を守ることができます。健全な尊厳はあなたに、屈辱や搾取ではなく、敬意をもたらします。健全な愛は、あなたを盲目にするのではなく、しっかりと目を開かせてくれます。健全な愛はあなたを強くし、自らに対して真実であることをサポートします。何故ならちっぽけなエゴを手放すことを通して、あなたが自分の望みを叶えることだけに固執することはなくなるからです。真の愛は健全で、サド・マゾ的な愛の傾向からも解き放たれています。真の愛は利己的なものではなく、あなたの人格を侵害しません。常に相反するふたつの流れが存在することを知ってください。愛する皆さん、このことをよく考えてみてください。

 

 恐れは、多かれ少なかれ人間の魂のどこかに潜んでいます。そしてそれは、真の愛を達成するときの障害物の一つであり、いくつかの点で自己愛が過剰な時に存在します。それはどんなときでしょうか?なんでも深刻に受け取ってしまう時、自分が良い人間であることばかりを心配している時、そして、健全な方法で流れのままに身を任せサレンダーする代わりに、自らにしがみついている時です。このような時、人は恐れの中に身を置いています。自らに過剰に重きを置かない人は、「もし自分が自分を愛してしまったら自分に何か悪いことが起こるのではないか。」と恐れる必要はないのです。恐れは、厚いベールであなたの目を覆います。ですから、あなたの目は見えていないのです。自分自身と同じように他者を見ることも、本当の意味で出来ません。真の愛は盲目ではなく、恐れのない魂から生まれ出るものなのです。間違った種類の愛が弱まりつつある時には、いくぶん正しい方法で反応することができますが、やはり間違ったやり方での反応が強くなります。前に申し上げたように、真の愛は、間違った尊厳とは大きくかけ離れた、本来の尊厳を創り出します。間違った尊厳とは、プライドと自惚れから生まれます。このような魂の間違った流れは、「世界への疲労感」という感情の形成に大きな影響を与えます。

 

 「世界への疲労感」の別の原因は、「閉じこもる」態度の中に見ることができます。つまり、人間がひとりで、自分だけの世界に引きこもってしまう態度です。もう一度申し上げますが、このような態度は自分のちっぽけなエゴを手放すことやリスクを負うことへの恐れ、もしくは甚だしく自己中心的なエゴから生まれています。自分が作り上げた世界への「引きこもり」は、他者への責任を負わなくてもいいという、束の間の利益をもたらします。また、自分だけの為に好きなように人生を費やす余裕を与えてくれます。しかし一方で、彼らは自分が考えているより大きな代償を支払っているのです。このような行動は霊的法則に反している為、彼らの内のハイヤーセルフは、彼らに「世界への疲労感」を感じさせることでそれに気づかせようとします。そのため彼らは常に大きな不満を抱え、それゆえに孤独を感じ、自分が孤立し周囲から見捨てられていると感じるのです。

 

 全ての人間は、その魂のコアの部分で、与えること、成就すること、そして自己を捧げることすらも成し遂げようと努力しています。しかし魂の中の真実に対して盲目で病んでいる部分、そして未成熟な部分がこの努力に抵抗すると、二つの相反する波がその人に合わせて起こってくるのです。

 

 魂のある部分は、愛を与えたい、また愛を受け取りたいと望んでいます。あなたが与えるものは何でも、永遠に脈動するサイクルの中のひとつの波として、あなたのもとに戻ってきます。勿論、誰かが与えてくれるのを待つのではなく、あなたが最初に与えることで、自らこのサイクルを始めなければなりません。魂のこの部分は、自らを満たし、エゴを手放し、捧げ、全ての力と全ての感情の流れを使って、霊的法則に従う努力を重ねます。利己的な感情を手放し、自惚れやプライド、個人的な利益だけを一心に追い求めることはしません。このような感情の流れはあなたのハイヤーセルフの部分から生み出されます。ハイヤーセルフは、本当の成就や幸福、調和、そして完全性がどこにあるのか分かっています。この流れは、霊的発達が低い人の中にでも存在しますが、それは地下に潜っており、一生の内ごく稀に表面に姿を現すだけです。

 

 人格の別の部分では、心地良さや利便性を求め、何も手放そうとはしないでしょう。その部分は、ずっと幸福の光ばかりを追い求め、それを見つめます。しかし、魂の盲目な部分にとってリスクが少ない暗く孤独な世界を好み、そこに存在します。

 

 両方の流れを同時に正当とみなすことはできません。何故なら、二つの波はお互いにまったく違う方向を目指しているからです。交差したふたつの流れは、あなたが考える以上に広範囲に多くの衝突や争いを巻き起こします。この争いはあなた自身の内にある深い亀裂の象徴であり、そしてこの重荷に耐えられなくなった時、これらふたつの相反する魂の流れの存在に気づけるように、精神分析医の下を訪れるのです。その流れの存在を知って初めて、どちらか一方の流れに明確に従うという内なる選択ができるようになります。一度に両方の流れに従うことはできないからです。片方を選ぶことで、何を手放さねばならないのか、また何を手に入れなければならないのか、よく考えねばなりません。この場合、少なくとも次のような言葉を理解できる程度の知識は持っていなければなりません。「もし私がこの方向に進むなら、同時に反対方向に進むことはできない。だから、私は選ばなければならない。」

 

 これは、以前にもお話しした、心の内面の選択の一例です。内なる決断は、あなたが隠された感情の流れに気づき、それらが互いに打ち消し合うように間違ったチャネルに流れ込む場所を突き止めた時にのみ下すことができます。交差した流れ、つまり感情的な障壁は、心理的な障害物としてだけでなく、疲れや弱さ、もしくは明確な病気という形での肉体的な歪みとしても現れてきます。相反する流れ同士が魂の中で衝突することが頻繁に起きれば起きる程、人間は、健全なチャネルで生産的に機能する強さを失っていきます。魂は、常にこれを繰り返しているのです。

 

 人間はいつも、感情より知性で理解します。しかし、不健全な感情が無意識下に隠されている間は、それを健全で意識された考えに適合することはできません。その為、不健全な感情を表層意識に上らせる必要があります。霊的な真実と神聖な法則とは別に、健全で調和の取れた人生を送ることを望む全ての人々を豊かに満たすことはひとつのテーマであり、道理をわきまえた人は、同時にふたつの方向に進めないことを分かっています。従って、大きな抵抗が出てくることは必至ですが、心の内面の矛盾の存在を意識することは必要不可欠なのです。

 

 皆さんは、感情的に病んだ人のことを未成熟であると言いますね。少なくともその部分では、その人の魂を不健全だと思うこともあるでしょう。実際に、未熟さは大人気のなさです。何故なら、子供のように不可能を求めるからです。未熟な人は、それぞれの行為や不作為がそれに対応する結果をもたらすことを認識するだけの理性がありません。成熟した人であれば、それを区別し、受け入れることができます。成熟した人は、このようにして「不可能なこと」を知り、それを手放すことができるのです。ところが、感情的に病んだ人や未成熟な魂は、相反するもの両方の利益を得ることを主張します。彼らが「不可能」という事実と向かい合わなければならなくなった時、心の内面の暴動は激しさを増します。変えることのできないものへの抵抗は、病んだ感情の流れの中に存在します。内面の争いはこのようにして激しさを増し、そしてこれらが人間の外面の生活に反映され、表面化してくるのです。

 

 交差した波には、私がお話したものの他にも多くの種類があります。他の症状であっても短絡的であることは、曖昧とした憧れや悲しみを引き起こすことがあり、同じような感情に頻繁に悩まされる人は、この観点から探究してみると良いでしょう。勿論、深く無意識であることも多い感情の流れを明らかにすることは容易ではありません。そのことへの抵抗を克服するには、強い意志の力が必要となるでしょう。神への憧れ、そして真の霊的な故郷への憧憬は、この世の倦怠感を完全に説明するものではありません。満たされない憧憬は確かに神への憧憬ですが、皆さんが一般的に考えているのとは違う意味での憧憬です。人が神の法則と完全に調和して生きている時にのみ、神への憧憬は静まります。この方法で神の下に近づき、神との調和の取れた人生を阻む障害物の全て取り除いた時のみ、この地球での人生にいる内に、神への憧憬を満足させることができるのです。

神の計画に従って、自分の能力を最大限に発揮し、地上での生活、つまり自分の発達状態に対応した個々の仕事を完全に全うする者には、内面的な不調和は一切ありません。そこには、苦しみも、苦々しさも、緊張も、悲しみも、世界への疲労感もありません。

 

 内なる選択に話を戻しましょう。否定的な決断をしたとしても、その全ての結果や手放さねばならないものを手放すことについて、理性的なだけでなく感情的にも全てを完全に理解し受容するならば、ふたつの不可能を同時に主張し、両方の選択肢の利点だけを望み不利益は一切受け入れないよりも、あなたはより良い生活を送ることができるでしょう。

 

 例えば、過剰な心配や過敏さゆえに他者に愛を与えることを拒み、自分の世界に引きこもり、一人ぼっちの人生を送ることを選択する時には、一生一人ぼっちで過ごすことと、一生愛のない暮らしを送るであろうことを考慮に入れなければなりません。明らかな喜びと満足を、完全に手放さなければならないのです。それが本当に実行されるならば、否定的な選択でさえ、何も選択しないより、もしくは両方を望むより、健全な状態へと一歩近づいたことになるのです。これにより、少なくともあなたは内面的に自らを統合し、そして内面の矛盾によって分裂することはなくなります。例え、間違った選択であっても否定的な決断を下す際には、正直に自らに向き合い、無意識を意識化し、少なくともひとつは代償を払うことにコミットする必要があります。このような正直な態度は、たとえその選択が最善の選択でなかったとしても、魂の健康に良い影響を与えます。

 

 このように、人が大抵は内的感覚の内に外面的または内面的に、他者から自分を切り離す選択をするならば、その人は直ぐに、この選択に含まれる意味を理解することになるでしょう。その人の利己主義、不安、神経過敏が、勝ち抜いたということです。愛や成就、光、友愛、そして関わっている他者との融合への憧憬に直面すると、自らにこう言い聞かせるでしょう。「私がこれを選んだのだ。その代償は分かっているし、否定性を手放すより、代償を払う方が好ましい。」否定的な決断さえも、正直に下す為に必要なのは、まさにインナーワークを通してなのです。このようにして、結局真実を選択したほうがよかったこと、当初は手放すことがとても難しいと思っていたものを手放すほうが良かったことを、彼らは後になって知るのです。殆どのダメージは、自分自身を本当に知る努力をせずに、何の選択もしないこと、無意識にある感情の流れ全てをひとつにすることを自分に許さないことが原因です。「選択しない」という姿勢は魂を弱らせ、逃れることのできない争いへと魂を誘い込みます。霊的にも、また物質的にも、人生を充実し満たされたものにするエネルギーが枯渇してしまいます。

 

 交差した感情の流れや感情の遮断は、人によって強さや現れ方が異なります。沢山の段階があり、二者択一の問題ではないのです。相反する感情が同じ強さの流れとして押し寄せ、荒々しくぶつかり合う場合があります。このような時には、その感情の波に人間が完全に埋没してしまい、その人は自らの人生の舵を取れなくなってしまうのです。ある観点から見ると、これは良いことです。何故ならその人は、すぐに癒しのための道を自由に見つけられるようになります。激動がなければ、霊的に非常に発達した一部の人を除いて、殆どの人は健全さへの道を見つけられないでしょう。内なる葛藤がそれほど明確でなく、一方の流れのみ他方より表出している場合でも、少なくとも時折は、逆流を感じることになります。その逆流は、その人の力を奪い、魂のエネルギーを完全に統合することを妨げます。

 

 「世界への疲労感」の原因は、まだほかにもあります。その原因の全ては魂の歪みから生じていますが、そのお話はまた別の機会にします。もう十分な情報を与えたと思います。私の言葉を聴かれた方も読まれた方も、自己探求の十分な素材を得たでしょう。

このような憧憬を持つ人は誰でも、自らの無意識下の感情の流れが完全に健全ではなく、また完全に自由ではないことを知るべきです。

 

 魂と全人格の内に隠されている全てのものを覆うベールを剥すことに重きを置いてください。もしあなたが自らの痛み、虚栄心、恐れに重きを置くことを頑固に主張するならば、ベールを全て剥すことはできません。このようなエゴに対する重要性を最小限にとどめることができた時にだけ、あなたは隠されたものを覆うベールを剥し、虚構を手放し、内なる現実を変えていく勇気を手に入れるでしょう。

 

 それでは、別の内容についてお話ししたいと思います。何故なら、それが今日のテーマと関わっているからです。それは、自己憐憫の感情です。この感情は、「世界への疲労感」感を助長します。皆さんにとって、苦悩に打ちひしがれるのはとても気持ちが良いもので、経験している痛みは自分の運命なのだから耐えねばならないと自分を納得させています。しかし、実際はそうでないことが非常に多いのです。私が説明したように、このような苦悩は、歪んだ魂の流れから生じたもので、皆さんにはそれを修正する力があるのです。

 

 マゾキズムと呼ばれる、苦しみを楽しむという病んだ否定的な喜びは、ある特定の傾向に由来します。それは以下のようなものです。あなたは直面したくない問題から逃げ出す一方で、この「喜びに満ちた苦痛」の中に、自らの人生経験で欠落しているものの代替品を見つけます。これらはカルマ的な理由によるもので、あなたが内なる扉を開けば、勇気や意志の力によってそこから抜け出すことができます。過去生の重荷に関わらず、外的なレベルで今経験すべきことに関わりなく、私が何度も繰り返しお伝えている内なる条件を満たすことによって、あなたは魂を癒し、思考や行動だけでなく、あなたの感情を霊的法則と調和させることができるのです。その結果、発達のどのレベルにいるとしても、あなたの人生は感情的に豊かで調和の取れた幸せなものとなり、あなたは完全に満たされ、人生を謳歌できることでしょう。

 

 最後に特に、このことをよく考えてみてください。変えようのない何かに抵抗することで、あなたは自らの人生を不調和の中に陥れるのです。反対に、変えようのない運命の一撃を受け入れることは、魂に決して害を与えない。人は当然このような重荷を喜んで引き受けることはしないし、そうする必要も、そうすべきでもありません。それは不可能です。しかし、抵抗や苦々しい思いなしに、それに身を任せることもできます。このような困難に耐えることの悲しみは、どうしてか魂の解放を助けます。皆さんも折に触れて、このことを感じられたことがあるのではないかと思います。

 

 苦悩に打ちひしがれる時は常に、あなたは過去の同じような状況での反応を無意識に思い出しています。自己憐憫の情に浸ることで、あなたはこの感情を再生しようとしています。しかし、状況は以前とは違うのです。その困難が逃れられないものだった時、それに身を任せることが、その時の最善の選択だったのでしょう。しかし、今は違います。今、あなたは自分の痛みに対する態度を変えることができるのです。何故なら、ある感情がある状況下で正しく健全なものだったとしても、別の状況下では病んだものになり得るからです。おそらく、このことは理解して頂けるでしょう。

 

 今夜お話ししたことは簡単に理解できるものではありません。このことを注意深く考えてみてください。親愛なる皆さんに祝福を。

 

 

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Pathwork Guide Lecture No.6 1996年版
1957年5月20日

霊界と物質界における人類の役割


The Human Role in the Spiritual and Material Universes

 

 

 親愛なる皆さん、あなた方人間が自己の自由意志を神の意志に委ねることにどれほど困難を抱えているかについてこれまで議論を重ねてきました。では、その真の理由を考えてみましょう。この問いについてよく考えると、明確な考えを打ち立てられなくても、この世を信頼せず、 神を信じていないということを認める必要があります。感情的にはそうであるに違いありません。 然るべき形で神を信じていれば、誰も自己の意志より神の意志を優先することに困難を感じることはないでしょう。ところが、適したことや有利なことは神よりも自分の方がよく知っていると信じているかのような感情的反応が起こります。実際、そのような訳は全くないのですが。

 

 誰もが持っている自己愛は、不健全で目先のことしか見えない愛ですが、皆さんへの神の愛 は、清く、強く、健全な愛です。従って、より先を見通した慈悲深い愛であり、皆さんに最も適 したものを与えようとします。勿論、神が遣わすものは、やや不快なものであることも多々あり ます。それは、神が望んでおられるのではなく、因果の法則に従って、過去の行動や態度によっ て自らがもたらしたものです。それをどのように受け入れ、これに関しても、自らを神の法則に どのように委ねるかを理解すると、問題は大いに軽減されます。抑圧するものと戦って克服する と、強く、自由に、幸せになります。一歩一歩前進するにつれて、全ての意味を更に深く理解するでしょう。自ら生み出した障害を克服した場合に限り、既にこの地上で、神が授けたいと思う幸福を享受できます。自ら生み出した困難を克服した場合に限り、まだその原因が分からなくて も、自由になり、この幸せを受け入れ保ち続けることができるのです。

 

 (ここでいくつかの段落が省略されています。それに関してはPGL#52「神のイメージ」で詳しく述べていますので、そちらをご参照ください。)

 

 以前にお話ししたことではありますが、もう一度繰り返したいと思います。霊能者だけではなく全ての人間が、神の世界と個人的に繋がることができ、また繋がるべきなのです。誰にとっ てもそれは可能です。しかし、条件を満たさなくてはなりません。霊能者を通して話しかける時、 神のスピリットは、決して皆さんを依存的な操り人形のようにすることは望みません。勿論、神と整合しておらず、すべきこと、すべきでないことを進んで指図してくるスピリットもいます。 そうすることで力を得て、自らの虚栄心を満たしているのです。それが暗闇のスピリットだと言 っている訳ではありません。しかし、高次の神のスピリットは、力もおだても必要とせず、それを望みもしません。高次のスピリットは、神が望まれるものを望みます。神は、皆さんが自由で 独立した人間であることを望んでおられます。真の解放は、神にのみあり、神を通してのみ行わ れるでしょう。具体的な例で神の御心が何であるかを理解するには、個人的な体験が必要です。 その中で、私たちは皆さんを助け、個人的に神と繋がる方法を教えます。これには明確なルール があります。まず、皆さんは個人的な個々の障害を乗り越える必要があります。私たちは、その ような繋がりを望む皆さんを助けましょう。そのような繋がりを調節し、容易にする原理につい て説明したいと思います。しかし、皆さんにそれを望む気持ちがなくてはなりません。私たちも 神も、皆さんの自由意志を尊重します。このレクチャーの最後に、その繋がりを望むか否かを尋 ねます。常にこのテーマだけをお話ししている訳ではありません。レクチャーのテーマと関連付 けています。常に関連性のある題材があります。お望みであれば、コースを提供することもでき ます。でも、望まないのであれば正直に言ってください。全てが全く新しいことばかりではあり ませんが、この「コース」は霊界と個人的に繋がる条件を、皆さんの進歩に応じて、段階的にま とめたものです。親愛なる皆さん、これを用いれば大きな宝を手に入れることが可能です。本当に大切で、幸福を与えてくれるものと同様、容易に実現できるものではありません。決断するの は皆さんです。皆さんに代わって決断することはできません。

 

 学んだことを応用しない人は、例え自分自身の為であっても、霊的真実の現実を否定する権利はないということを付け加えたいと思います。ここであっても別の所であっても、神のスピリ ットが教えてくれることは全て、疑う余地のない強さで個人的に体験でき、外的で物質的な反証を凌駕します。それは体験可能です。従って、ここで学んだ全てを経験する為に必要な条件を満 たさず、それが確認できたと思わない人には、その妥当性を問う権利はありません。

 

 さあ、親愛なる皆さん、質問をどうぞ。

 

 質問:死後の世界について、インドと西洋の概念の違いについてお聞きしたいと思います。 どちらが正しいのですか?インド人が言うように、死んだ後には何も残らない、転生を繰り返し たあと最終的には無に戻る、個々の人格が生き残ることはないというのは本当ですか?それとも、 人格および個々の意識は何らかの形で存在し続けるのですか?

 

 回答:まず、どんな宗教的概念にも真実のエッセンスがあることについて改めて言及したいと思います。そのような質問をする度に、このことを思い出してください。聖書であろうと他の 宗教の教えであろうと、この真実のエッセンスを見いだすためのお手伝いをしましょう。あなた の質問に戻る為、まず、実際にどうであるかについて説明します。そうすれば、矛盾の解明に役 立つでしょう。

 

 人は高次に発達する程、エゴによる限界が減っていきます。魂の周りに無知と分離の壁を築くのはエゴです。高次に発達するにつれ、ある魂を別の魂と結びつける愛の絆が見えるようにな ります。愛によって互いに結びつくという意味で、この絆は自由な繋がりです。この愛の絆に関 係する人は皆、自らの痛みも相手の痛みも同じように感じ、相手の喜びが自らの喜びとなります。 自分も相手も同じ体験をします。エゴは、自分を別の場所に置き、相手よりも自らの為により良 いものを望むことで、相手よりも高い位置に立ちます。人間あるいはスピリットの実体が、上昇 への道を一歩ずつ登るにつれ、エゴは消えていきます。最も高い段階に達すると、兄弟愛、愛情、 神の全てとの一体感を完全に感じるようになります。その結果、それぞれの魂が他の全ての魂と常に成長し続ける調和の中で共鳴し、全ての兄弟姉妹および天の父と本当に自由な絆を築きます。 これを言葉で説明するのは非常に困難です。皆さんには、そのような状態の内的体験がなく、そ のような概念がないからです。ですから、私が伝えようとしていることを何らかの形で思い描くことができるよう、真の意味を感じるよう努力してみてください。

 

 最高のレベルは、「神の家」と呼ばれています。家ではなく、広大なエリアを想像してくだ さい。神の家に入るもの、すなわち人間の肉体にこれ以上生まれ変わる必要のないものは、神と完全に融合するのです。その為、先に述べたように、自らにおいても他者においても等しくあら ゆるものを感じ、体験します。まさにエゴを克服したからです。ところで、地上に生まれ変わる 必要がなくなった人が皆、直ちに神の家に入る訳ではありません。多くの場合、まず別のエリア で成長し続けます。ところが、人間は往々にしてエゴは人格の個性と同一であると考え、基本的な概念を勘違いすることで過ちを犯します。しかし、このふたつには何の関係もありません。それどころか、いくつかのレクチャーで説明してきたように、高次のレベルに達するごとに、「私」 という意識は広がり、強くなります。まさにエゴの分裂が克服されたからです。分裂したエゴは 無知、理解不足をもたらすだけで、必然的に認識、ひいては人格の個性の低下、減少に繋がるに違いないからです。いつかエゴを克服し融合する必要があります。そうすれば、個性を手放すこ となく、高まる自由、光、理解、愛の中で、発揮することができます。

 

 よって、互いに相反しているようであっても、ユダヤ教およびキリスト教の概念にも、イン ドの概念にも真実のエッセンスを見出せます。インドの概念はエゴの解消を示し、一方、ユダヤ 教およびキリスト教の概念は、真に永遠に高められた形で存在する魂の個性のみを扱います。どちらも真実です。涅槃の概念がインドで広がった理由は次のとおりです。

 

 インドでは、最終的に皆さんに教えていくものと類似する特定の瞑想の実践を通して、あるいは高次の霊的発達によって、意識を失うことなく肉体から精神を解放することのできる人が、 常に多数いました。その結果、彼らは霊的体験をしました。少なくともある程度エゴを超越する ことが、霊的体験およびそれに伴う至福感の必要条件であり、霊的体験をしたことのない人が、 体験者の話を誤って伝えることは無理もありません。どんな感情も言葉で表現するのは困難です。 体験がより高次で、より美しく幸せに満ちたものであれば、同じ体験をまだしたことがない人に 向けてそれを言葉にするのは困難です。これは、特に霊的体験の場合に当てはまります。結果として、人づてに伝えられる霊的体験は、実際の出来事を話すよりも、さらに誤解されやすくなり ます。こういうことなのです。よって、個性が解消し、消滅するというのは全く違います。そう だとすれば、個人の体験を心に刻み、意識に持ち込むことさえできなかったでしょうし、どんな に不十分であっても、それを伝える試みは絶対にできなかったでしょう。これら全てから、個性が存在しなくなるという概念がどのようにして生じたかを容易に理解できます。これは重大な誤 りです。皆さん、実際、そんなことはあり得ません。神が美しさと純粋さで創造されたもの、特 にスピリットは、決して消えません。エゴを持たない、純粋な形の個性は、純粋なスピリットで す。

 

 美しい花や愛らしい小動物を見る時、その体や外皮が朽ち、その生命が絶滅に瀕するが為に、 皆さんはそれが一時的にしか存在しないものと考えます。それは間違いです。親愛なる皆さん、 違います。美しく、高貴なもの、精神的なものは、決して消えてなくなることはありません。お そらく少し異なる形であっても、その本質、つまり個性を完全に守りながら、永遠にあり続けま す。霊的なものは生きているからです。死体を見て「生命体が消えた」または「生命体が去った」 と言うことがよくあります。そう言うとき、もちろん生きているスピリットを指しているのです。 それ故、人間あるいはどんな生き物の性質においても、素晴らしく、高貴なものは、決して消え てなくなることはありません。永遠に個性の中に存在し続けます。わかりますか?

 

 質問:はい。言うまでもなく、愛する人との絆が存続することを確かめること、少なくとも 何らかの示唆を得ることはとても重要なことです。

 

 回答:私が言っているのはまさにそういうことです。その通りです。独自の人格が無かった なら、恋愛であろうとなかろうと、他者との付き合いもあり得ないでしょう。愛の絆は身近な人との間に残るだけではありません。いつか、おそらく皆さんの観念からすると非常に長い時間の 中で、この絆は広がり、今は興味のない人や嫌いな人までも加えるでしょう。この愛情の繋がりは、拡大し続け、ますます多くの兄弟姉妹を取り込んでいきます。霊的成長によって手に入れたもの、愛や理解などが決して失われないようにする為に。

 

 ところで、涅槃と言われる霊的体験をしたインドの神秘主義者は、人格が完全に消滅すると いう誤った概念を、決して明確に述べたり広めたりはしませんでした。インド人であろうとなかろうと、神秘主義者と話をすれば、それが誤解であり、真実はまさにここで説明しようとした考 え方であることが裏付けられると言えます。それどころか、個性、個人の経験能力は増すだけで、 決して減ることはないこと、消えるのはエゴだけであることが裏付けられます。これが本質的な 違いです!この違いについて熟考し、瞑想することは、素晴らしいことです。自己の全人格は、 エゴにかかっていると考えられているからです。

 

 このように説明できるでしょう。エゴはローアセルフの一部であり、個々の人格は、その瞬 間のローアセルフもハイヤーセルフも含んだ発達状態全体で形成されます。消えてなくなるのは、 ローアセルフです。それは、皆さんを憂鬱にし、エゴと共に地上に縛り付け、個人的な霊的体験 や隣人への愛や思いやり、その他何であれ、あらゆる点において、神を体験する個人の能力を制 限します。ここで、争い合う2つの「自己」があると想像してください。これは常に言っているこ とです。違いを感じ、魂の内で一方を他方と区別できるまで十分に成長したら、この説明がよく 分かるようになるだけではなく、霊的体験そのものに更に一層近づきます。エゴにしっかりとしがみついている場合、それはローアセルフの克服が非常に難しいからだけではなく、エゴと共に 個々の人格も諦めなくてはならないといった誤解もあるからなのです。

 

 質問:ルドルフ・シュタイナーの教えを信じている私たちの友人は、「王国」は、天と地、 あるいは善と悪といったふたつだけではなく、三つあると言っています。この概念によると、地 球はルシファーあるいは悪魔ではなく、唯物的な支配者であり、ルシファーよりも危険であると みなされているアーリマンによって支配されています。これは事実ですか?

 

 回答:ここにもまた、真実のエッセンスがあります。ルシファーだけが「堕ちた」のではな く、他の多くのスピリットも同様に堕天したのは知っての通りです。彼らが皆、等しく重い責任 を負わされた訳ではありません。ともあれ、神には七人の息子がいました。神によって最初に創 造されたものであり、神に最も近い存在でした。このうちふたりが、他の多くのものと共に「堕ちた」のです。その中には神に近しいものもいましたが、ここではそれについては触れません。 とりあえず、これで十分です。現在、ルシファーを選んだ息子の一人が、物質を支配し、ある意 味で、地球を支配していると言えます。このスピリットもまた重い責任を負わされたのです。しかしながら、「堕落」を導いたルシファーが、最も重い責任を負わされたのです。三つの王国が あるという教えは、あまり正確ではありません。この観点からすると、王国は三つ以上あるから です。ルシファーは、神から切り離された領域を支配し、他の堕ちたスピリット達に多かれ少なかれ独立して支配できる一定の区域を与えました。特定の場合以外には、彼らはルシファーに頼る必要はありません。これは、神の世界に存在するもの、それを人間が地上で模倣したもの、多 くの実体が共存する場所にあるべきものの模倣です。つまり、一定の秩序とヒエラルキーです。 神の神聖なる王国では、発達に応じて、スピリットの存在も独立した力を持っています。その活動範囲は増え、広がり続けます。そして、ある程度、霊的法則を正確に知ることで、自ら結論を下し、実行することができます。自己の知識レベルを越えた特定の問題しか、上の階級のスピリ ットに頼る必要はありません。

 

 現在、前述したルシファーの兄弟が地上の支配権を与えられ、物質を支配しているのは事実 です。しかし、ルシファーの世界が皆さんに近づけないということではありません。どんなに大きな力であっても、突き詰めていくと、このスピリットもルシファーの影響下にあり、よってルシファーの領域の一部なのです。これについて具体的な説明がなかったのであれば、それほど重要ではなかったからです。しかし、皆さんは、ルシファーには様々なレベルの力を与えられた配 下がいることを知っています。物質を支配するこの特定のスピリットもその配下のひとりです。 しかし、指摘したように、そのスピリットだけではありません。他の領域で、まったく同じあるいはほぼ同じような力を兼ね備えた別のルシファーのようなスピリットがいます。全てを説明す るのは不可能ですが、その必要はないでしょう。

 

 地上には、直接その物質というスピリットの支配下にいるスピリットもいれば、ルシファー の直接の支配下にいる、地獄から来たスピリットもいます。ところが、突き詰めていくと、すべ てがルシファーによって支配されています。それでもなお、人間にとっては、この物質のスピリ ットの方がルシファーのスピリットよりも更に危険であるというのは正当な言い分です。ルシフ ァーの配下には、悪、憎しみ、殺人、妬み、人を見下す傲慢さ、その他の悪行のスピリットがい るからです。これらのスピリットは、基本的な性向の全てが具象化されたものです。しかし、そ のようなスピリットは、人間がそれに応じた感情を持たない限り、その人に近づくことはできま せん。ご存知のように、人格の全ての側面が同時に成長する訳ではありません。ですから、ある 特定の視点に限って人が特定のレベルを超えて発達すると、最も邪悪なスピリットであっても、 その人に近づくことはできません。たとえ、依然として魂の中にこれらの否定的な感情が僅かに 残っていたとしても、それと戦う方法を知り、誘惑に負けず、行動で示すことはありません。しかし最早、卑劣で邪悪な行動は取れず、直接ルシファーのスピリットに従うことはできないが、 それでもなお、ルシファーの兄弟に仕えるもの達の誘惑の影響を非常に受けやすい人も多くいま す。必ずしも他者を傷つけるつもりはなくても、神や霊的なものから目を背けることで、スピリ ットを理解すること、受け入れることができなくなります。その結果、このルシファーの兄弟は直接的に、ルシファーは間接的に勝利を手に入れます。闇の力の目的は、あらゆる存在を神から 引き離すことです。

 

 神および霊的な生活から背を向けると、再び地獄のスピリットの影響を受け入れるようにな ります。物質的なものへ強い執着を持つことで、一定の低次の感情が呼び起こされるからです。 このようにして、物質のスピリットは間接的にルシファーに仕えます。ルシファーが失敗した場 合でも、多くの人間を捕らえることができます。結果として、物質を通して、間接的にルシファ ーに貢献するのです。必ずしも邪悪な人である必要はありません。邪悪であれば、ルシファーは 兄弟を必要としません。そのような人々は洞察力に問題があり、物質に捕らわれるにつれて洞察力が衰えます。洞察力を広げる為に、神の世界との繋がりを確立し、自己探求と自制心、愛と謙 虚さの道を歩むことをしません。単調で、奥行きのない、灰色の世界に生きています。本当に生き生きとしているものは何もありません。何故なら、物質に捕らわれ、活発なスピリットを抑えつけているからです。

 

 ここで言いたいのは、芸術を愛している、あるいは知的興味を追及しているという理由で、 自分は霊的であると信じている人が多いということです。しかし、このようなことでは、本当に 霊的になったり、生き生きしたりしません。その結果、ルシファーの兄弟に支配され、次第に弱 くなり鈍くなる人達は、洞察力がはっきりとせず、物質的なもの以外何も信じないので、無意識 の内にルシファーに引き渡されてしまう可能性があるのです。従って、危険を認識し、それと戦 うことができません。認識できない敵は、その存在や性質を良く認識している敵よりも常に危険です。分かりますか?[はい]

 

 質問:動物の感受性についてお聞きしたいです。人間は地球上で最も発達した生き物とされ ていますが、特定の領域においては動物の方が優れています。例えば、狩猟犬には、人間に全く 欠けている感覚があります。また、猫は、知らない人が来ても身動きをしないのに、場合によっ ては、家族の一人が帰ってくる音が聞こえる前から玄関へと走っていきます。これはどういうこ とですか?

 

 回答:それはこういうことです。本能と呼ばれるものは、物質的ではないものを知覚する感覚に他なりません。動物では、この感覚がより発達しています。なぜなら、動物の知性はまだ人 間ほど発達していないからです。人間にとって、特に上昇成長するには、知性が非常に重要です。 何故なら、知性は行為の意志の一部だからです。しかしながら、知性が最終目的となり、目的のための手段、つまり神に達する手段ではない場合、その時、その知性は、正しい方向を向いておらず、あまりにも強調され、その結果、調和が乱れます。その為、健全な本能は弱まります。これがまさに現在の状況です。バランスを取らなくてはなりません。そうしなければ、深刻な結果に陥ります。過去に起こり、依然として特定の人がやっているように知性を疎かにする場合にも、 同じことが当てはまります。多くの場合、人間に欠けている感覚が動物に備わっているのは、埋 め合わせとして必要だからそのようになっています。適切なバランスを取り、高次の目的を達成 するために知性を用いるなら、人間はこれらの能力をもっと多く手に入れることができるでしょう。これもまた、いつか実現するでしょう。いわゆる原始的な人では、本能的な認識をする資質 がはるかに発達していることが見てとれます。これが質問への答えです。しかし、この質問はさ らに面白い論点を示しているので、それについてお話ししたいと思います。

 

 皆さんの時代の病気と呼べるような魂の歪みを通して、地球上では技術的かつ科学的な進歩 が達成されましたが、それは霊的な進歩とは歩調が合わせていません。決断を下すことができるよう、神は知性をお与えになりました。「私はこの道、又はその道を行く。こちら、あるいはそちらを決める。」霊的生命および霊的態度の為に選ぶことができるのです。しかし、その選択は 自らの自由意志に基づくものでなくてはならず、自由な決定は知性に基づきます。そのような決断が正しくなされると、本能的および、霊媒能力を含む超感覚的な知覚能力は、麻痺することなく知性と共に発達します。これは、英知と正当性が必要とするように、適切な機能と本質に応じて、知的能力をどの方向に向けるかに左右されます。目的は、霊的かつ精神的な生命体全体の調 和の取れた発達です。知性がこの方向から逸れて使われると、結果として調和が乱れ、不幸を感 じます。知性は、最高次の霊的レベルを達成するために非常に重要な道具であるということを心 に留めておいてください。それを抑えてはいけません。同様に、その方向性だけでなく、その使い方にも意識を向けてください。それ自体が目的ですか?それとも目的のための手段ですか?

 

 本能のテーマに関して、次のように自らに問いかけてください。第一に、自らの内で本能と知性の調和の取れたバランスが保たれていますか?本能、または何と呼ぼうとも、それが内側で 働けるよう十分な機会を与えていますか?そのような内なる力は、知性と同じように開発や育成 が可能です。結局のところ、知性そのものが制限された力なのに、それで本能的な感情を制限、 抑制するのですか? 第二に、与えられた目的のために知性を使っていますか?この全体的な枠組 みの中で知的能力を使う人は、真の方向に人生を導きます。人生の課題を完全に果たし、深い安 らぎを味わいます。

 

 質問:科学的な関心から質問をしたいと思います。科学者の友人から聞いたのですが、既にこれまでに一度、人類は非常に高次の進化を極めたことがあり、現在の私たちよりもさらに高次 であったということです。これは物質的な意味であり、霊的な意味ではありません。彼によると、 数十万年前、世界が大惨事で破壊された当時、原子エネルギーは確かに知られていたということ です。これは本当ですか?

 

 回答:ええ、本当です。人類の霊的発達のレベルは技術的進歩に対応していなかった、そし て仰った通り、まさにそれが要因となって世界が破滅したと言うのは事実です。物質的発達と霊的発達の間にあまりにも大きな相違があると、より大きな危険を避けるために必ず出来事が起こ ります。この出来事は、状況が招いた自然な結果であり、神がお許しになられたことです。そうでなければ、霊的な危険は、地上のいかなる大災害よりも遥かに大きくなるでしょう。霊的生命を失うことと比べれば、地上の生活を失うことは取るに足りないことです。原因と結果は法則に 従って解決する必要があり、人類の歴史における神の行為は、決して人間の霊的生命を危険に晒すことはありません。時に、物質的な大惨事以外で、霊的な破滅を回避できないこともあります。 多くの場合、歴史がそのことを実証しています。霊的発達、つまり神と再び繋がることが、物質的進歩に釣り合っている場合に限り、常に消えてしまう否定的なものではなく、生き生きとした ポジティブな周期の中で、歴史は進んでいくのです。

 

 親愛なる皆さん、皆さんは全員、神に祝福されています。平和の中で進みなさい。

 

 

 

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PGLNo6
PGLNo8

Pathwork Guide Lecture No.8 1996年版1957年7月1日

霊媒能力--神の霊的世界と繋がる方法

MEDIUMSHIP -- HOW TO CONTACT GOD’S SPIRIT WORLD

​ 親愛なる友人である皆さん、前回私は完全性の道へ繋がる最初の扉に入ることについてお話ししました。門へ入る決断をし、それに躊躇なくコミットすることの問題について、どのよう に困難を乗り越えれば良いのかお話ししました。友人の皆さん、それ以来、私は皆さんを観察し てきました。私が言えることは、神の魂にとって、皆さんがこの決断を下したこと、そして最初 の一歩を踏み出すのを見届けることは大きな喜びであるということです。今日はその後に起こる 事柄についていくつかお話ししましょう。

 しかし、そのお話をする前に付け加えたいことがあります。それは友人の皆さんがこれらの 話を聞いたり読んだりする時、決断することを避け、自分とは何の関係もないと信じ込む可能性もあるということです。その場合には、コミットしようとさえしません。この反応は魂に刻み込 まれ、その結果、自らの運命に影響を与えることになります。また、たまに祈り、まともな人間 になる努力をしているからといって、もう既に長い間この道(パス)にいると信じている皆さん もいるでしょう。私が言及したいのは、そのことではありません。「決断」という言葉にはもっ と意味があります。したがって、私が具体的に友人の皆さん、レクチャーを読んでいる皆さんに も言いたいことは、あなたが立っている場所をよく考えるようにということです。望んでいた場 所に正確に立っていない可能性もあることも考慮して下さい。

 決断をし、神の手に身を委ねた人は直ぐに内側で何が起こっているのかを感知します。最初の反応は大きな安堵と内なる喜びであり、暫くは全身でそれを感じることでしょう。しかし、こ の素晴らしい感情は永遠には続きません。このことを聞くと、重さと不快さが戻ってくるのであれば、最初からその決断の意味はないと簡単に結論づけることもできますが、それは違います。 初めの門を超えた後、あなたは道の先頭にいるのです。霊的な働きはこの門を超えた後にのみ始 まります。この道の歩みは、諦めではなく着実に継続することから成ると、以前にお話ししまし た。それ程の努力が必要なのです。

 完全性、幸福、そして解放の道へ入る時に何をすべきなのかは、もう過去にお話ししました。 今日はそのお話ではなく、まだあまりお伝えしていないこと、この道で期待できる良いことや美 しいことについてお話しします。あなたはもう既にこの道を歩んでいくことの困難を知っていま す。決意を実行に移し、時に困難に見えてもそれを貫き、繰り返し時間と意志の力の両方を振り絞る難しさを知っています。これを行えば、美しい報酬が益々明らかになります。これは突然起 こる訳ではなく、非常にゆっくりと起こります。

 人がこの決断について真剣で、単なる善意に留まっている訳ではなく、止むを得ず後退した り、たまに失敗があったりしても、行動に移していることを霊的世界が認めると、その人に霊的な守護が強化されます。これも霊的法則です。困難な道を歩む人は、そうでない人とは異なる種類の霊的な助けが必要となります。この道にいる人には、特別で高次のより強力なスピリットガ イドが与えられるか、または守護(ガーディアン)の交代が行われます。その人が門を超えるまで導くという義務を果たしたこれまでのスピリットは、今や別の使命を担う準備ができているの です。

 このような守護の交代は、この特別な門を越える前に行われる場合もあります。霊的な守護が強化されると、人はその存在を完全に確信します。人生の中で重要な試練を乗り越えなければ ならない時や、この門を超える前または後に霊的な選択を行う必要がある時には常に、守護が強化されることが何度かあるでしょう。人生には人それぞれいくつかの岐路があります。しかし、明らかに霊的な守護が強化されたような経験が起こったとしても、完全性の道の入口を超えた証拠として、それを受け取ることのないように。

 この道が実際に何であるのかということを正確に理解する必要があります。それは、自分自身の成長に関する集中的で継続的な作業です。それは自らを知ることであり、何よりもまず自らの不完全性を受け入れることです。その後、霊的な法則が内側で統合し、時間とともに魂の不完全な感情の流れに影響を与え変化させます。日々このようなワークをしていない人は、まず外側 からの助けとアドバイスを貰うことでしょう。そして、これらを貰わなければ成長できない人は、 この道を歩むことはできません。ある特定の友人の皆さんの為に、これを何度も強調しなければ ならないのです。

 更に、強化された守護を受ける人は、神の霊的世界との繋がりを確立しようと努力する時に、 霊的な領域から意味のある知識や直感的な洞察を受け取ります。結局のところ、それが全てなの です。このような導きは、この特定の門を超える前から様々な形で起こっていた、繋がりのない、 曖昧な知覚として現れることは最早ありません。しかし、そのシステムと道理の関係性を理解するにつれて、より理解可能な、大きな全体像が見えるでしょう。これらの人々は、自らの霊的な 道がどのように進むべきか、自分自身にどう取り組むべきか、何から最初に取り組むべきなのか、更に明確に把握するようになります。彼らは真の選択肢が自らの人生にあると分かるでしょう。 全般的な神の意志と、個人的なテスト(試練)の意味と目的を見つけるようになるのです。

 この発見は人生における大きな転換点であり、非常に重要です。これまでは、人生に起こる小さい不幸でも大きい不幸でもあるこのテストの意味を理解できず、それが人生をとても困難な ものにしていました。この転換点を通過した後は、まるでベールが取り払われたたかのように、 困難をより容易に克服できるようになります。更に日常的な問題や困難において、正確に助けを 受け取るようにもなります。以前は不可能だった、本当に平凡な問題や困難についての助けを受け取れるようになるのです。親愛なる友人の皆さん、この葛藤から得られる勝利の幸せ、喜び、内なる解放は、これまで人が経験した何事にも比較できません。

 私の教えの目的は、各自が神の霊的世界と繋がることです。それをどう確立するかについて 詳しく説明していきます。あなたが実際に霊的世界と繋がる作業を続けていけば、様々な形で結 果に繋がっていくでしょう。ある人は見る、他の人は聞く、またある人は感じる等、それは様々な形に渡ります。神の霊的世界と繋がる方法は多岐に渡るのです。

 ご存知のように、この道に入る前にこの特別な力を受け取る人もいます。これが、皆さんが 「霊媒(ミディアムシップ)」と呼ぶものです。人がこの能力に恵まれる時(恵まれるという言葉を使うことには躊躇がありますが)、それが大きな試練となる可能性があります。霊的な力の 目的が何であるかを知らない人にこの力が与えられると、その人にとってこの贈り物は負担とな り、試練となります。霊的世界での霊的な力の意図は、人間が神と、神の霊的世界の真実の姿を より簡単に見つける為の道標となることです。勿論、これは完全性の道を見つけることを意味し ますが、大抵そのことは残念ながら理解されません。これらの力が現れてくる程に、その霊媒は 不幸になってしまうでしょう。何故なら、彼らが頑固に自らの古い考えを主張する程、低次の霊がそれを利用するからです。これは当然その霊媒の態度からもたらされる正当な結果です。

 ある人が「これらの事柄」を知っていて、特定のことについて霊媒能力を育てることも可能です。単に外的な側面と言った方が良いかもしれませんが。しかし、その人は個人的に完全性の 道を歩んでいるとは言えません。繰り返しますが、これもまた最初のケースと同様に、この種の 霊的世界との繋がりは霊媒にとっても、周囲の人々にとっても危険です。

 しかし、人が完全性、成長、自己認識と自己訓練、人間性の道に入った後に力が現れるならば、そして最初の門を超えて、神との繋がりをその目的のみに使うならば、霊媒能力は最も素晴らしい方法で進化します。そこには特に難解で難しい試練もありません。詳細はここではお話ししませんが、霊的な繋がりは霊的成長というひとつの目的にのみ使われるべきだという点は強調 しておきます。この真実を認めると、助けがもたらされます。そして、その時だけ霊媒は他者を助けることができ、他者は霊媒によって助けられます。このことは後からもっとお話ししましょ う。

人々がこの程度まで進歩して、自分自身の成長に関する質問の答えを受け取るようになると、 神の霊的世界への信念は計り知れない程に強まります。それまでは不安定だった信念が、とても 強くしっかりとしたものになるでしょう。

 「この道をどのように始めることができますか?次のステップは何ですか?」と尋ねられたとしたら、私は「それぞれの始め方は違う。」と答えるでしょう。霊的な問題を先に片付けてお かないと、次に進む道の妨げになりかねません。もしかしたら、他者の言葉に対して広い心で接することができない、という硬直した偏見かもしれません。問題を特定し、それに開いて行かね ばなりません。自らを開き「それが神の真実ならば、答えを受け入れる準備ができています。今 までは正反対のことを信じてきました。」と言えない限り、何の答えも出てきません。この道で は、常に心を開いている必要があります。そしてこの心の状態に達する為に、多くのワークと意志、時間を費やす必要があります。もし、あなたがこの全てをまだ費やしていないなら、自分に尋ねてみるべきです。「私の不完全さは何だろう?私の欠点はどこにあるだろう?霊的向上へ向 かう最大の障害になるかもしれない最大の欠点は何だろう?私が既に認めていながら、その結果や程度について明確な説明をしていない欠点とは何だろう?また、仲間が突きつけている私の欠点とは何だろう?」これを考えてみてください。あなたは「これは不当です。私がこれらの欠点 を持っていることは真実ではない。」と言うかもしれません。それは本当でさえあるかもしれま せん。しかし、そのような意見の中にも、おそらくあなたへの表現方法やあなたの理解とは異な る真実の一粒があるに違いありません。誠実に、真実を得ようという絶対的な善き意志で、このことを考えてください。親愛なる友人の皆さん、抵抗が大きいもの程、真実である可能性があり ます。あなたが非難され、今まで認めなかった事柄の内に、一粒の真実を見出すことができるのです。

 これらの欠点のリストを作り、あなたの意識の中で認め、再び消えないようにしましょう。 このことがあなたを大いに助けます。次に、個人的な霊的な友人(肉体があってもなくても)に、 そのリストを持って行って下さい。そして自らを開くことで、答えとより深い理解を受け取り、 繋がりを感じるようになるでしょう。「父よ、あなたの意志は成し遂げられました。私は自分自 身の真実を求めます。臆病さ、虚栄心、過敏さでそれに反発することはしません。」と宣言し、 不快な事柄であっても聞く準備ができた人は、確実に真実を受け取ります。

 それまで抵抗していたものが真実である時、あなたの幸せはより大きくなります。何故なら、 実際に望んでいた答えを聞くよりも、その経験の現実性を確認できるからです。実際望んでいる答えを聞いた場合、それは単に希望的な考えに過ぎないと自覚できます。しかし、あなたがずっと抵抗してきた何かがやってきた時、あなたは実際に霊的な友人の存在を感じるでしょう。それ によって、他の世界の存在を確認できます。それは、大抵疑われ、見ることも触れることもでき ない世界です。そのような答えはあなたの弱い信念を安心させます。それを神からの最初の答えだと考えてください。この答えは、人間が最初の一歩を踏み出すことを望む時、また変化するこ とへの抵抗を克服した時だけに与えられます。この報酬は素晴らしいものです。何故なら、個人的な答えを受け取ったり自らの直接的な経験を通じて霊的世界の現実を知ることから来る安全は、どれ程多くの物を聞いたり読んだりしても得られません。しかしまた、「外側の」言葉も必要で す。それは必要なことをする推進力となります。

 これが、道の始まりです。それを経て、毎日の些細なことに気付くようになるでしょう。「この特定の経験の意味と目的、それがどのように私を大きく成長させてくれるのか、私が理解でき るよう助けて下さい。」このように、霊的友人に頼むことができるようになります。そうすれば、 再び答えを受け取ります。しかし、不快なものを聞くための準備、そして最終的にそれを聞くこ とを機械的にではなく、常に新たな心構えで繰り返し行わねばならないだろうと警告しておきた いと思います。これを単に一度体験するだけでは十分ではありません。扉が閉まっている状態で は、真実は通り抜けられません。そして、不快で面白くなかったとしても、その真実を受け入れ る準備が完全に整っていなければ扉は閉じられます。これを理解して進むならば、あなたは認識、 または内なる知識を通して繰り返し答えを受け取ることになるでしょう。

 もしかしたら、数日後に霊感を受けた仲間の言葉を通して答えが届くかもしれません。これ は神の世界の助け方のひとつです。従って、あなたはそのメッセージを受け取るために目と耳を開いておく必要があります。これはテストであり、そのような助けに開き、あなたに何かを伝える必要のある人の話を聞く謙虚さを学ぶ機会です。これが、取りかかるべき第二のステップになります。このテストに合格すれば、深く理解をするという新しく素晴らしい体験が続き、再び霊的世界の現実を強く確信するようになります。そのような経験は、答えがあなたの内から直接来る時と同じくらいの有効性を持ちます。あなたは自らの道がどれ程に素晴らしく、組織化された 方法で導かれているかをより明確に感じるようになります。

 この道を歩み続け、ワークを通してある種の堅実性に到達した者は、いつかは感謝の気持ち として何かを神に捧げたいというニーズを感じるようになることを付け加えておきます。初めは、 犠牲が求められているように見えるかもしれません。勿論、それは時間の犠牲ですが、それに加えて負担と感じるようなものです。何かを手放すこと、何かを努力によって克服することは、犠 牲のように感じられます。これは最初、苦労としてしか見られないかもしれません。支払うべき代償と、与えなければならないものに集中するのです。自らを乗り越える勝利からもたらされる幸せは、最初の内、意味が理解できない約束に過ぎないように思えます。しかし、その代償を支 払う準備ができた人は誰でも直ぐに、自らが与える百倍以上のものを受け取ることに気づくでし ょう。

 この道を始めたばかりの人にとって、これは只の言葉に過ぎないことは知っていますが、覚えておいてください。何故なら、皆さんはいつか、この言葉が証明されることを見届けるからで す。そうすれば、あなたは神の偉大な計画に奉仕し、神の同僚として共に働く存在になる準備が整います。必要なのは準備だけです。「どのように」という部分は神に任せなければなりません。 奉仕の最善の方法を見つけられるよう導かれます。繰り返しますが、この選択をした皆さんには、 助け、奉仕する意欲は、犠牲ではなく、想像できる限り最大の喜びになるでしょう。

 ここにおいでのふたりの友は、この霊媒能力に関してとても明確な任務を持っているという ことが分かります。親愛なる友よ(心理研究の調査員として科学界と協力し、霊媒の経験がある男性)、あなたは霊媒として訓練を積んでいくこの道にチャンスがあると思います。あなたは、 他者と神の霊的世界との繋がりを確立し、そのような接触を規制する条件やルールを学ぶことを 教えるようになるでしょう。霊媒の才能を持つ人々が益々あなたの元へ導かれて来ます。あなたは多くの人を助けることができ、彼らの行いを更に高いレベルへと引き上げることができます。 従って、あなたは「神の救済計画」を助けます。素晴らしい仕事があなたを待っていますが、そ れを請け負う前に、いくつかの条件を満たす必要があるでしょう。

 もう一つ付け加えます。霊界の存在を説いている何人かの霊媒は、既に霊的な徳を得ています。神の救済計画に加わっているスピリットと繋がる場合、この徳が消えることはありません。 反対に、彼らがまだ救済計画に加わっていないスピリットと繋がる場合、この徳は消える可能性 があります。救済計画に疑いを持っている人々は、証拠を見たいと考えます。この証拠は霊界によってつくることができるのですが、期待とは違う形で、違う条件下で霊界からもたらされます。 しかし、辛抱強く待つ準備ができており、確信が欲しい人々にそのことを説明できれば、神の計 画に協力している霊的存在からもたらされる確信は、比べられない程に効果的で持続性のあるも のになります。その確信は、未だ盲目の霊的存在からもたらされる、瞬間的な印象が強いのに直ぐに消えてしまう力のような確信よりも大きなものです。人は一般的に、人間のように働く霊的 存在が、彼らの方法で影響を与えることができない限り、懐疑論者を納得させることはできない と信じています。しかし、そうとも限りません。人が霊的存在に自分の条件を強制するのではな く、霊的世界のコミュニケーションの条件を受け入れるなら、科学はこの種の知識をより多く得 ることができます。これは決して難しいことではありません。必要なのは、霊的法則から求められる異なる条件について人々を啓発することです。

 友よ、あなたには別の使命があります。あなたは人々のオーラをゆっくりと見始めるでしょ う。初めは時折しか見えず、霞んで部分的にしか見えません。知覚を養い続けると、あなたの才能は更に伸びていきます。オーラの色が見えるだけでなく、パターンを区別するようになります。 人間のオーラにはさまざまなパターンがあり、その一部は人間が認識できるものです。例えば、 病気、魂の傾向、言葉にならない思考等です。勿論、これら全てを学ぶ必要があり、その能力を開発する助けを受けることになります。

 

 そのような才能の目的が何であるか尋ねたいかもしれません。目的なしには何も与えられな いことを忘れないで下さい。将来的に、あなたには癒しの力が与えられます。オーラを知覚する と、オーラの中に病気のパターンが見え、その病気が何であるかを知ります。あなたはそれを癒すために対応する力を受け取ります。このような素晴らしく充実した仕事があなたを待っていま す。神はそれをあなたの通常の生活の妨げになることなく、あなたにとって最大の喜びとなるよ うな素晴らしい方法で導いてくださいます。信頼を持ち、自分を導きましょう。もっと言えば、 それさえ神に委ねて下さい。

 皆さん、ぜひご自分のワーク全ての側面に対して同じ態度でいてください。「いつ導いてもらうのか、いつ自ら行動するのか。」これらの質問は、霊的世界との個人的な繋がりについて確認する時にも尋ねられます。

 伝えられたふたつのメッセージを受け取りました。それ以外のメッセージは私から、または 他の方法で個人に伝えられるでしょう。このようなメッセージを受けとるタイミングではなかった皆さんは、「どうして私でないの?」と考えないように。全てには正当な理由があります。あ なたがその理由が分からなかったとしても、そのことを常に信頼して下さい。これが、霊的世界との繋がりを確立しようとする方法です。ありとあらゆる全ての人々が、この方法を使うことが できます。皆さん、神は特定の人々だけが繋がれるようにしていると思いますか?いいえ、そうではありません。

 人類にとって、意識的、無意識な全ての努力の目的は、物質の重さを貫通することです。結局のところ、人類の科学技術の進歩の意味は何でしょうか?考えてみて下さい。物質の克服では ないでしょうか? それぞれの科学技術の進歩の成果は、皆さんが障害だと感じる物質的問題を克服したことに他なりません。科学技術は外からの力でこれを達成しますが、完全性の道を歩む人は内からの力を利用します。それが双方の違いです。後者の方法の方が、比較できない程の効果 があります。

 では、これから出来るだけ質問に答えましょう。

 質問:私たちのこの時代において、霊的世界との繋がりを確立することがとても難しい理由は何ですか?

 

 回答:一概に霊的世界との繋がりは難しくはつくられていません。全般的にその繋がりを妨げているのは人間です。ほとんどの人は霊的世界を信じておらず、それに対し開いていません。 霊媒能力者としての力は多くの人々にとって眠った状態であり、使用されるどころか実を結ばな い状態にあります。

 しかし、あなたが本当に意味するのは外への一般的な繋がりではなく、特に神の霊的世界との繋がりのことでしょう。この種の繋がりを確立するのは常に困難でした。これが人間にとって、 それまで受け取れたものの内、最も貴重な贈り物であるからという理由は明確です。それは、努 力なく簡単に、そして単純に人間に引き渡されることはありません。神の霊的世界は、繰り返し 霊媒を試し、その人にその価値があり能力があるかどうかを確かめます。霊媒は道徳的にふさわしいだけでなく、彼らの在り方が最高のものであり、自由で制約のない魂にふさわしいものでなければなりません。多くの善良な人々は、最初の要件を満たし完全性の道に入るまでに他者を助けたいという願望と意志を持っています。しかし、多くの人はこの道を進み通す事ができません。 意味を理解することができない為、克服できないという障害に巻き込まれてしまうのです。霊媒にとって、ある程度の成功を収めた後に訪れる大きな誘惑は、能力をマスターすることではなく プライドに負けることです。そこで完全な謙虚さが必要となります。霊媒にとって、顕現される 霊と自らを同一視しないこと、その為に自分自身が他の人より優れている存在だと思わないこと がどれだけ難しいか考えてみてください。大抵の場合、多くの人がある程度までは成功しますが、 その後に行き詰まってしまいます。

 私が既にこのレクチャーで説明したように、この完全性の道を何よりも積極的に追求し、それにしっかりと根ざしていない限り、誰も他者を助けることはできません。霊媒の全てをこの観点でテストする必要があります。彼らの殆どは、礼儀正しい人間になれるよう祈り、努力してい ると教えてくれるでしょう。しかし、全ての人が多かれ少なかれかかっている魂の病を癒すのに 必要な程に成長しているとは言えないでしょう。認識されていない無意識の感情、その人がワー クしていない認識されない問題、ひとつひとつの偏見は、神のスピリットを阻む大きな障害となります。霊媒がそれに値しないが為に、神のスピリットが現れないという訳ではありません。霊 媒がそれを通せないのです。人々が自分自身の中に認めないもの、霊的法則から逸脱しているも のを通り抜けることは、私たちスピリットにはできません。ひとつひとつの硬直した意見は、大 きなブロックです。

 頑固な信念の正反対に真実があるという可能性に開いていない時、私たちスピリットは真実を押し通すことはできません。これは、霊媒が神の意志にのみ才能を捧げねばならず、物質的または霊的な個人的利益は主張するべきではないという基本的な条件のことを言っているのではありません。その条件を可能な限り満たしている人でさえ、まだ霊的法則から僅かに外れている可能性がある為、障害物に当たることがあります。つまり、完全で完璧な楽器は殆ど見つかりませ ん。スピリットの領域、その動き、感情、思考はあなたにとって空気のようなもののため、理解するのは難しいでしょうが、私たちにとってのそれは、みかげ石で作られた堅固な形の壁のようなものなのです。

 ただし、霊媒がほとんどの条件を満たしており、彼らが着実に成長し、ゴールに達したかど うか等は考えない場合(そもそもゴールが存在しません)、小さな障害は重要にはなりません。 敢えて言えば、彼らはその障害を迂回することができます。またその障害物は価値のあるテスト にもなりえます。このテストはその人のみに利益があり、合格するのに成功した場合は全てがそ の人の為になります。一定のレベルに達した後は、霊媒に不完全性がまだ有ったとしても、小さ な障害物が霊媒またはその周囲の人々にとって、真実に到達するブロックにはならなくなります。 障害を克服し個人の完全性を達成するのを助けることは、結局のところ神の霊的世界の唯一の目 的であり、神との繋がりの唯一の道理です。

 質問:さまざまな宗教哲学が二元論と一元論を強く区別しています。二元論というのは一元論に繋がる特定の段階であり、一元論はより高い真実ですか?

 答え:二元論を段階として見ることもできます。これを説明することは終わりの見えない困難な仕事であり、人間がそれを把握することはとても難しいことです。しかし、この点において 現在存在する難しさというのは、私が霊媒を通して自らを顕在化できないということです。これが霊媒の制限の例になります。彼女は、私がこれらの言葉を伝えられる程にまでオープンな状態です。私は多くの霊媒を通してこれを話すことはできませんでしたが、彼女の場合少なくともこの程度までオープンです。しかし、彼女の成長がまだ十分に進んでいない為、ここで私が十分な説明をすることは不可能です。おそらく数ヶ月、または数年、おそらくもっと短い期間で、これが可能になることでしょう。今は分かりませんが、彼女の成長がブロックを排除するほど十分に進めば、いつでも質問に答えましょう。

 質問:これは、霊媒の状態にとても左右するということを意味していますか?

 答え:いいえ。人々が神の霊的世界との繋がりを確立できる成長の段階に到達すると、霊的世界は霊媒の不完全さにも関わらず、その繋がりを使う人々が常に必要な糧を与えられるようにします。そのコミュニケーションは常に彼らの成長を促進し、神と至福の状態に近づけます。既に述べたように、私たちスピリットにとって邪魔になっているブロックを迂回することは可能で す。従って、誰もが自らが持てる最高レベルを達成する為に必要なものを受け取れるのです。この繋がりという目標は、あなたが本当に必要とする全てであり、他には何もありません。あなたは、神聖な秩序に属し、助け、教えることができる霊とできない霊を区別することができます。 他の全ては、単なる詳細であり、重要ではありません。

神のスピリットは、全ての人が常に神の霊的世界との独立した繋がりを確立すべきだと主張しています。神のスピリットは助けとなり、方向性を示してくれるでしょう。勿論、霊媒の仕事としての最初の段階でまだテストが必要な場合には、ブロックがまだあるためにいくつかの偽りの物がときどき介入してきます。親愛なる友人の皆さん、それでもこれは重要なことではないのです。成長することを完全に決心している人は、常に個人的に受け取るメッセージが正しいのか、 そのメッセージから何かを学べるのかということをいつも真剣に内観し黙想するのです。最も重 要なことは、全ての宗教哲学に定められている基本的な条件を完全に認識することです。それは 神の意志に従うこと、自分の過ちを克服することで自らを浄化すること、自己知識を培うことで す。

 正しい在り方は、天地創造の存在のような大きな質問に対して、完全な答えを知ることがさほど重要ではないと理解することです。あなたがそれに値するほど十分に成長するまで、そして知識にアクセスできるようになるまで謙虚に待って下さい。「全てをテストし、善を保ちなさい。」 という聖書の言葉にシンプルに従うのです。神の意思にかなうものを静かに受け入れて下さい。 一度に全てを知りたいと思うのではなく、謙虚で辛抱強く毅然とした在り方でメッセージを受け入れて下さい。

 正しい在り方というのは、霊媒にも霊にも決して依存しないことも含まれます。そうすれば 霊媒がまだ訓練中およびその移行状態にある場合でも、受け取る側がダメージを受けることはありません。ひとつのものを信用し過ぎないで下さい。大切なのは明確な思考と謙虚さです。結局 のところ、最大の質問に対する答えを与えられるに既に値していると仮定し、先に自らを証明することなく神の世界と直接繋がることができると仮定するのは、謙虚さが欠けていませんか?

 私が話していることは、霊媒だけでなく全ての人に当てはまります。なんの疑いもなく霊媒のメッセージを受け入れてはならないという私が警告しているのは、自分の中の意識から隠され た敏感な領域を見たくない人々によって、それが簡単に悪用される可能性があるからです。その人たちにとっては、心配させるような言葉を受け入れたり、却下したりすることも試験になりま す。不快の原因となるメッセージに対し、内から響く何かが見つからない場合には、それを拒絶する前に十分に注意して下さい。内なる真実とは何かを何度も神に尋ねて下さい。そうすれば、 あなたが拒絶しようとした言葉そのものが、本当に真実であることが分かるかもしれません。そのような洞察は、大きな内なる喜びを生み出します。個人的な質問がある時はいつでも、そのようなアプローチが必要です。しかし、一般的な質問においては、この分野の全ての知識は誰もが 獲得しなければならない恵みの賜物であるため、辛抱強く謙虚にいることが必要です。霊媒とそのテストを受ける人がそれに合格すると(喜んで試される人は、誰でも合格できます)、その後更に多くが与えられます。一般的で大きな質問に対する完全な答えは、人間の理解能力をはるかに超えている場合がよくあります。一般的に、人類全体においてスピリットの助けを借りずにこの世界で簡単に見つけられるものでさえ、皆さんはあまりに多くの誤った意見を持ちます。ここにいる人々に限ったことではありません。天地創造に関する素晴らしい問いについて、どれだけ 知っているか、間違った考えを持っているかは問題ではありません。何故なら、皆さんは既にこの世界上で、多くの誤解を持っているからです。問題は、むしろ霊的に発達し、それが正しいことを疑いなく知る時に、スピリットの助言を受け入れることです。そうすれば、あなたは必然的にあなたが正しい道にいることのより多くの確信を受け取るでしょう。これにより、自分自身の 内側、または他の霊媒を通じて、自己への信頼と神の世界への繋がりが強化されます。

 この特定の繋がりが、十分に根拠のあるものであることを明確にしたいと思います。それは このメッセージが届いているという事実から明らかです。霊媒は十分に開いており、虚栄心がな いということは当たり前の事です。あなたが何人かの霊媒に試験をする時(この特定の点で試験 をする必要があります)、この程度にまで縛りのない霊媒に出会うことは非常に稀であると確信 するでしょう。この評価はこの繋がりの信頼性と、霊媒の正しい方向への進歩の目安として確実 に役立つ筈です。

 一元論と二元論についての質問に戻りましょう。私が言える唯一のことはこのことです。一 元論と二元論の両方が存在します。神は人であり、また一つです。私が今これ以上言えることは ありません。

 質問:私が聞きたいことは難しく、おそらく愚かなことかもしれません。

 答え:聞いてみて下さい。

 質問:私はこの問題に何度も苦しんでいます。神が私達の為に救済計画を立てており、私達 が間違った道に入った為に神から離れたのなら、神は何故、この救済計画を私達にとってこれほ ど複雑で非常に難しくしたのでしょうか?私たちの成長に必要であることは分かっていますが、 それでも難し過ぎるように感じます。

 回答:あなただけがそう感じるのでしょう。困難が生じるのは、個々の存在がそれ以外の方法を取ることができなかったからです。親愛なる友人の皆さん、地球が今の形で創られる前には 他の方法が試されましたが、それは成功しませんでした。その結果、神は現在の状態を創造しました。残念ながら、成長は苦しみの道を通してのみ起こります。それは本当に残念なことですが。 しかし、初めは他の方法で創られようとしたのです。

 個人的に、次のことを加えましょう。私が今日のレクチャーの冒頭で述べた言葉を試してみ て下さい。その方法で神の世界との繋がりを創り出すと、あなたは強くなります。あなたは、これらの言葉が何を意味するのかを理解するでしょう。信仰の恵み。あなたは条件を満たした時に それを受け取ります。その言葉がどういう意味を示しているのかを学んで下さい。そうすると答えが得られます。

 

 あなたに起こることは、他の多くの人に起こることと同じです。人々は「神は、私に神の正義を示さなければならない。そうすれば私は神を認める準備ができるようになる。」と言います。 私の親愛なる皆さん、ある日あなたがその知識に到達した時、そのような姿勢がいかに愚かであ るか、思考と感情の両方において間違っているかを理解できるでしょう。それより、人間は初めから不完全な存在であり、神と神の創造は完璧な存在であるという考えでいる方がはるかに良いの です。あなたは、そうでなく違うことを信じているのでしょう。明確に考えていなくても、感情にはその考えが含まれています。私はあなたを非難しません。多くの人が単純にそう考えている のです。「堕落」の原因となった悪意は、今も存在しています。それは正常な論理的思考での思い違いであり、思考の見直しが必要です。あなたが見ることができ、ある程度まで理解できる創造の顕現について調べてみてください。全てがどれだけ素晴らしく組み合わされているか、あなたに見えるあらゆる細部を観察してください。それから、神があなたの心の中に入ることを許す前に、神が最大の愛と正義を証明すべきだと、あなたがどのように要求しているのか考えてみて ください。分かりますか?

 質問:はい。しかし、しばしば神の意思を知るのはとても難しいです。それに従いたいととても思いますが、どの道を行くべきかわかりません。

 回答:これは霊的世界との繋がりを通して、あなたが達成すべきことの一例です。神の意志を知ることを目的としてこの繋がりを使いたい人は、誰でも確実に答えを得るでしょう。扉を叩 く人には扉が開きます。神の意思を成すと決心した人は、誰でも答えを受け取るでしょう。しか し、あなたは常に逃げ道、自らをかくまう場所に通じる小さな裏口を開けたままにしています。

つまり、準備はできていますが、同時に神が何か不快な要求するかもしれないことを心配してい るのです。これでは、神に向かって半分だけ進むことになります。まさに私が前回のセッション で話したことです。「神よ、あなたの意志は成されるでしょう。例えそれが、私にとって不快な ことや未だ理解できないことであっても。神は正義と愛だからです。それは明らかであり、私が 立つことができる唯一の地面、そして私の唯一の不動点です。それ以外には何も知りません。」 神の道に至るということは全て、この考えでいることです。勿論そのような考えは、感情に届くように育まれ、何度も形にされねばなりません。思考の形を繰り返し構築する必要があります。 時間と共に、それが感情に影響を与えます。この心構えを持ち、神の意志を求める人は、自らをかくまう場所への道や裏口を残さずとも毎回答えを受け取ります。分かりますか?

 答え:はい。分かります。

 質問:物質とスピリット、神性と人間としての富や欲の関係はどうですか? それらふたつの正しい統合とは何ですか?

 答え:繰り返しますが、お金は他の全てのものと同じで、原理も一緒です。お金がお金という目的ではなく、何かの目的の手段として使用される場合、正しい統合となります。人がお金で 物質に縛られるのではなく、お金を健康や才能等、他の神の贈り物と同じように感謝の気持ちで使い、お金の心配から自由になることを意識的に選択する時、彼らの精神的な発達と統合が良い ものになります。多くの人にとって、これはとても難しいことです。人は危機にある時の方が神の道を進むことが簡単に思えます。反対に、心配がない状態だと、神の道を進まない方が楽にな ります。これは、富を持つ人が、それを必要以上にしないように、その富を分け与えねばならないという意味ではありません。何よりも、お金がもたらす誘惑に打ち勝つ時あなたは富を楽しむことができるのです。人が霊的に上昇する為には全てを手放し、貧困の中で生きなければならないというのは狂信的です。そのような課題を要求される人もいるかもしれませんが、それは例外 です。例えば、物質的な心配がなければ、精神的に成長することは大事ではないが、日々の糧の心配をしている場合には、そのような問題に勤しむことは不可能だ、と言う人達に対して、模範を示すことを求められているのかもしれません。しかし、あなたが毎日物質的なことを心配して生きている場合、あなたがしたような質問について考えることは不可能でしょう。また、とても 賢い魂はこの地球上での人生において、そのような特別な任務を託されます。この場合、彼らは 瞑想によって霊的存在に導かれます。大抵の場合、人生の中で物質的なことを気にしない人は、 彼らが神の道を歩んでいるかをテストされます。彼らは物質界をコントロールしている霊に誘惑 されず、捕まらないことを証明しなければならないのです。

 正しい中間点を確立するための一般的に通用するルールはありません。全てはその人の特性次第です。貪欲な人の正しい統合は、消費癖のある人の統合とは他の異なる方法で進めなければ ならず、誰もが自分の中間点を見つけなければなりません。そして、あなたは確実にこの道で自身の中間地点を見つけられるでしょう。

 質問:他の言い方をすれば、多くの哲学で仮定されていることではありますが、精神的に努力する人々にとって、貧困は必要条件ではないということでしょうか。

 回答:個々のケースではあり得ることですが、決してそうである必要はありません。人はお金を正しく扱うことができず、貧しい時にこそ道を見つけやすくなるということが繰り返し起こる為、さまざまな哲学でこれを一般原則として確立するのです。ここで人が考慮していないこと は、存在する全ての人々が、その人生のサイクルの中で、どのような状況下でもしっかり倒れないでいることを証明しなければならないということです。

 質問:私は聖書に大きな葛藤を感じています。神が自らのイメージ通りに人を創造し、人に地球上の支配を与えたという箇所です。私が地球上の支配権を与えられているならば、私は自分自身、健康、全てに対する支配権も持たねばなりません。それならば、私はまず自分から始めて、 それに続き、地球上の支配権を得ることができる筈です。私は神のイメージの通り創造されているので、自分が望むものを創ることができる筈です。でも、それは最早、神の意志ではありませ ん!

 回答:この道で、あなたは神の意志を知るようになり、やがてあなたの意志も同じになります。

 質問:神との繋がりを確立する試みを通してということですか?

 答え:そうです。完全性への道の中で、神の世界との繋がりを築かねばなりません。その繋がりは、益々強くしっかりしたものになるでしょう。あなたの認識は着実に高まります。スピリ ットが伝えることのみならず、自身の洞察や成長を通して、神の意志を知るようになります。あなたの霊性はますます軽く強く、より意識的になります。あなたの霊的な芯は成長し殻を破り、 内なる完全性を取り囲む外の皮が開かれます。そうして神の意志が何であるかを知り、他に何も望むことはなくなります。

 質問:でも、随分と長い道のりです。

 回答:それは私が話したものと同じ道であり、皆さん全員が歩めるものです。それはただ幸福であり、より大きな幸福であり、地上的であれ、心理的であれ、霊的であれ、あらゆる束縛からの解放を意味します。

 私の愛する方々、今日の所は十分にお話ししました。私のお話ししたことを考えてみてくだ さい。この道を平和に歩んでください。神の祝福があなたの中に流れ、あなたを通して輝き、益々進歩し、益々幸せと喜びを得られますように。祝福は、近くても遠くても全ての友人の皆さんに 届きます。どうか神と共にいてください。

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PGLNo9

Pathwork Guide Lecture No.9

1996年版

1957年7月15日

 

 

祈りと瞑想-主の祈り

PRAYER AND MEDITATION -- THE LORD'S PRAYER

 

 

ご挨拶申し上げます。皆さんに神の祝福を。

 

皆さん、今日は祈りと瞑想についてお話しします。このふたつの違いは何でしょうか?多くの人々はその違いを明確に理解していません。この言葉の意味の定義はいつも問題となります。私は次のように区別をしたいと思います。祈りは、瞑想の前段階で、考え方の問題です。瞑想は感情を伴う祈りであり、思考より魂の力が関わっています。第二のステップ、また更に進む為には、祈りを通して学ぶある種の規律と集中力が必要です。殆どの人は、精神的にも肉体的にも活動的でいることには慣れていません。まず準備状態として集中を学ばなければ、瞑想に入ることはできません。

 

この最初の入口を通過した人は、規律、定期的なワーク、そして深く眠る魂の隠れた力を解放し、神のエネルギーの光線との繋がりを見出す為に神に近づき、毎日時間を割こうという最高の意志なしには、何も得られないという洞察が何よりも必要です。これは、できれば常に、同じ時間帯に行う自己鍛錬と定期的な練習によってのみ実現します。しかし、全ての人に適応する有効なルールを確立することはできません。ある人達にとっては、より自発的な方法が良いかもしれませんが、それは、自発的であっても、一日も欠かさず、時間と場所だけが異なる場合に限ります。通常、規則性がある方が有利です。

 

人間は集中に苦労することがあります。私の友人達も、最初は日常のありふれたことに邪魔され、あれこれ考えることを何度も経験します。そして、再び集中することが出来ずにがっかりしてしまうのです。いつも言うように、このような妨害は気にせず、うろたえたり混乱しないようにするのが大切です。すぐに高望みをせず、静かにリラックスした状態で練習を再開してください。暫くすると、一定の継続性と集中力が得られるようになります。これが祈りです。人間は頻繁に忘れますが、繰り返し神に助けを求めることも忘れないでください。これがどれだけあなたの救いになるのでしょうか。「本当の祈り、本当の瞑想を学ぶのを助けてください。」と言うのはどうでしょう。混乱した時には、いつでも助けを求めてください。ここでも「ノックすれば開かれる 」という言葉が真実を支えます。

 

祈りへの集中は、訓練として有益であるだけでなく、それぞれの思考が形を作り上げるのです。祈りの思考によって調和のとれた形が作り上げられるので、「感情の祈り」や瞑想を学ぶ前であっても、「思考の祈り」によって有益なエネルギーが活性化されます。思考の形は、感情の形ほどの力はないかもしれませんが、自らをだますことなく、真摯な意志が定着している満ち足りた心においては、自らの偉大さを現します。

 

これは、この道の特別な一部分の初めのステップ、つまり祈りの中で集中することで思考の純粋な力、精神の緩みをもたらす感情の流れの解放です。これが「瞑想」です。

 

一度ある程度まで祈りの集中力を身につけ、そのために定期的な自己訓練をしていると、機械的になりすぎてしまうという問題にぶつかるでしょう。ここまで進むと、祈りが足かせになるような全く正反対の過度な訓練に陥らないように必死に格闘する自分に気付きます。それは、あなたに祈りを魂の奥底にまでに浸透させることを学ぶ時が来ているということなのです。

 

この時も、役立つツールがあります。祈りは、私が言ったように、思考の領域にあります。思考は、ここ(頭を指す)から。瞑想は、人間の精神的な領域とである、ここ(胸を指す)から来ています。みぞおちには、その人の精神的な全体像が刻み込まれています。ここで感情を解放し、いつ、どのように神とつながるかを見極めた人は、内なる障害を克服することで、ある程度は自らをコントロールすることができるのです。

 

では、どうやってこの波動に入ることができるのか?と尋ねたいかもしれませんね。次のようにご説明します。間違った経路へ方向転換させられた全ての内なる流れは、障害となります。潜在意識の中で認識されず、混乱しているもの全ては障害になります。この波動に調子を合わせるのが難しい所、抵抗を感じる所は何処でも、魂の中で法則が無認識のまま違反されていることを確信できます。自己認識、自己分析、そしてこれらの流れを掘り起こすことが唯一の手段で、そのためには外からの導き、助け、指示がなければできません。

 

これを除いては、一般的なルールを確立することはできません。それは、人それぞれなのです。自ら内に波動を感じる場所を見つけなければなりません。すぐに、そして毎回そうなることを期待しない方がいいでしょう。時々、魂に内なる障害が残っていても、精神的な影響が人間を高い波動に引き上げることがありますが、そのような影響はめったに無いでしょう。「いつでも波長に合わせられる訳ではありません。」「その気にならないとできません。」と言って問題を避けないように。「アチューンメント(整合)」は、気分によって支配されるべきではありません。自らコントロールしなければいけませんし、あなたの精神と成長を意図的に高めなければ不可能なのです。自分自身の主になり、気分に左右されないように。全身に浸透するような神との繋がりを気分に頼ってはなりません。これがこの道の目的であり目標ですが、すぐに達成できるとは考えてはいけません。この道では、純粋な力が自分の内から自由に動けるようになるタイミングが判る所まで進めます。その為には、長く険しい道を進むしかこのゴールには到達できません。この点でも、助けを求めて祈ってください。具体的には、キリストがあなたを助けてくれでしょう。彼はあなたを助けると約束しているのですから、彼に頼る人はだれでも彼の助けを得ることができるのです。

 

魂の力を自由にする手段はいくつかあります。ある人にとっては、前に神とつながる強い波動を感じた時のことを思い出すことが役に立つかもしれません。あるいは、その時のことを想像してみると、感情的に追体験できるかもしれません。また、ある人は、聖書のある特定の一節や、特定の祈り、精神的な法則などの助けによって、より簡単に繋がることができるかもしれません。手段は様々ですから、各々が個人的な繋がり方のポイントを追求する必要があります。何よりも素晴らしいのは、自分自身に打ち勝つこと、本当の、完全な、心の底からの自分への理解です。あなたが抵抗力を負かした時、神の御心と真実に向かって自らを開きます。このような勝利は、多くの力を解放し、最初のうちは毎日できなくても、瞑想に繋がる素晴らしい波動を引き起こします。魂の祈り、瞑想については、別の機会に詳しくお話します。

 

今日は、先日の約束を果たす為、主の祈りの更なる解釈と、主の祈りの瞑想について皆さんとシェアしたいと思います。

 

前に一度、この祈りの意味と瞑想方法についてお話ししました。多くの可能性と方法があります。その時は、一般的なお話でしたが、今夜は、この祈りについての他のヒント、またどのよ うにこの祈りを込めた瞑想できるのかをお話します。それには1時間はかかるかと思いますが、あなたが必要とするものは常に何でも、この中から見つけ出せるとお伝えしておきます。この祈りがどのようにして極個人的なことに使われ、どのように全ての問題を解決することができるかをお伝えします。

 

「私たちの父よ」。この言葉の意味を考えるとき、たぶん神をすべての生命の父として思い浮かべるでしょう。しかし、この言葉を心の底から自分に言いながら、あなたの嫌いな人、気に入らない人、敵対心を感じる人、たまたま仲たがいしてしまった人達にとっても神は父であるということをはっきりと深く考えてみてください。常に深い嫌悪感を抱く必要はなく、ちょっとイライラする位でいいのです。穏やかな静寂の中で、その人たちも神の子であることを、じっくり考えてみてください。自分に不快な思いをさせる人も自分と同じように神の子であることを認めてこそ、自分を神のこと呼べるのです。そうすれば、あなたの態度、つまり感情も微妙の変化を経験し、より自由にリラックスするでしょう。

 

自分の気持ちは簡単には変えられないので、最初は抵抗を感じるかもしれません。強い否定的感情がある時には、硬い内なる結び目がある筈です。そのような抵抗は、内なる結び目を解くことがいかに大切なのかを伝えるシグナルだと受け止めてください。もし否定的感情を抱いているのなら、相手がどんなに誤っていたとしても、自分の中に解決されてない何かがある筈です。このことを理解すれば、自分の内にある問題を取り除こうとする意志と新しい認識やインスピレーション、教えを受け入れる準備ができます。そして、未解決の否定的な状況から自らを解放するための実践的な手段も得られるでしょう。これらの言葉の深い意味、またそれを自分の人生にどのように当てはめるのかをじっくりと考え、求め、望んでいると、突然胸のつかえがとれるように、重荷から解放されるのを感じることでしょう。

 

別の方法も試してみてください。他者の気に障る部分全てを無視し、その人の完璧さを思い浮かべてください。どこでどのように、その人の内から神の輝きが現れるのか分かるようにしてください。常に覚えておいて頂きたいのは、求める人は必ず見つけるということです。あなたは、彼らの中に彼らの高次の自己をはっきりと示す資質を見つけ出し、彼らを神の子とみなす資格を与えるでしょう。

 

それぞれに属するものを正確に特定するために、ハイヤーセルフとローアセルフを線引きすることは大変重要です。ハイヤーセルフは永遠で不滅であり、神のものです。ローアセルフは、束の間のもので、真の現実ではありません。他者に対してのみこれをするのではなく、まずはあなた自身から始めましょう。自分の内のふたつの自己をはっきり区別することができた時、隣人を愛することは、それほど難しいことではなくなるでしょうし、はるかに容易く嫌いな人をも兄弟姉妹のように感じられるでしょう。そして、自分のハイヤーセルフと隣人のハイヤーセルフを一つに融合させることができるようになります。このことは、祈りの最初の2つの言葉に含まれています。つまり、「私たちの父よ」です。

 

「天にまします。」天国はあなたの中にあり、外にはありません。従って、自分自身の中にそれを求めましょう。ベールに隠されているかもしれませんが、既に在る自らの完璧さを見つけてください。天国を求め、あなたが拒絶する人に対しても、その人の魂の中に神を求めてください。そうすることによってのみ、永遠の生ける神を見出すことができるのです。

 

「御名が聖なるものとされますように。」あなたが父の法則を理解し、それに準じようとすることで、父の名が神聖化します。何故なら、人生のあらゆる様相に、霊的法則は存在するからです。人生における問題で目茶苦茶になってしまっている時は、あなたは相応しい霊的法則を見つけていないということになります。あなたが「御名が聖なるものとされますように。」と言う時、「私の困難はどこにあるのですか?私の問題は何なのですか?そうしたくないけれど無意識のうちに精神的な法則に反しているに違いありません。」と心に問いかけてみてください。あなたがどの法則に反しているのか知る為に、神に助けを求めましょう。神に答えを求め、そして、神の名を真にあがめることで、個人的な繋がりを築くことを学ぶでしょう。実際に自分の心に正直になり、自らの問題を見つめる時、答えが得られることもあるでしょう。同時には来ないかもしれませんが、あなたが注意深く心を開いていれば、人生はあなたに答えをもたらします。

 

「御国が来ますように。」あなたが霊的法則の全てに従うことで神の名が神聖化すると、神の王国に近づきます。それは、あなたの内にあるのです。神の王国はどこか外にあり、地上に降りて来るので、神の王国が現れた所に行けば入れるのではと考えていますね。これらは、通常神の王国についての漠然とした考えであり、あなたの想像の中で建てた偽の思考の形です。神の王国は、あなたの中に作られます。それは、霊的法則を理解し、それを適用することで、この学びを無事に終えた時に初めて起こることなのです。

 

「御心が行われますように。」これについては、これまで何度もお伝えしてきましたので、多くを語る必要はないでしょう。しかし、この言葉を個人的なレベルで適応させることが、大抵の人達にとっていかに難しいことかを、もう一度強調しておきます。あなたは神の御心とは何であるかが分からず、そしてそれが何であるかを知りさえすればそれに従うと主張します。神の御心とは何かを理解する為に神の世界に接触しようと努力し、それを無条件に実行しようとする人は、例え未だ確信を持てなくても、その答えを得ることができると私はお伝えします。神の御心を実行する方法が不確かな時、知恵を絞って頭で考えるのではなく、答えを必要としない部分に目を向けて考え始めれば、はっきりと答えは出てきます。

 

どんな形であれ、完璧な道を進むことは神の御心であると、誰もがはっきり分かります。より安易な方法で不安の種を払いのけたり、他者や状況のせいにしたり、自分の中の間違いを探す必要性から逃げたりするのではなく、正直に自分自身と向き合うことが、神の御心であるということを確信します。

 

自分の中の抵抗になっている要因をじっくりと考えてみると、不調和を感じる時は、神の法則に反していることが分かるでしょう。あなたの中に何も問題がなければ、他者の悪行や間違いがあなたに不調和な感情を与えることはありません。答えは、あなたが何らかの形で神の御心を実現することができなかったということに違いありません。

 

ある人にとっては、不調和の感情は最終的に個人的な問題に繋がる、一般的な宗教についての疑問という形をとるかもしれません。別の人にとっては、より直接的な個人の性質によるものかもしれません。しかし、重苦しさ、怒り、抵抗、恐怖心、何か不調和を感じる時は、内側で何かが上手くいっていないことを伝えるヒントです。そうでなければ、あなたの人生の複数の状況にこれ程多くの闇がある筈はありません。あなたが一途に答えを求めれば、例え見つけるのに時間がかかったとしても、遅かれ早かれ答えを得るでしょう。神の御心を実現する為に答えを求め祈れば、必ず答えは得られます。恐れないでください。神の御心は常に賢明で愛に満ち、たとえその変遷が苦しいものであっても、幸福へと導きます。そして、「初めはやりたくないとしても、私は本当に神の御心を実行しても構わないのか?」と自分に問いかけてみてください。このテーマについては、以前一通りお話ししました。このことに関連して、活用してみてください。

 

「天で行われるように地でも行われますように。」これはどういう意味でしょうか?天国とは何でしょう?地上とは何でしょう?心の中で何処か外にあると思っている天国で、神の御心が行われますようにと祈りを捧げるのは、人間のちょっとした愚かさではないでしょうか。もし天国が外にあるなら、そこに神の御心が行われますようにとの祈りが必要でしょうか?そこでは、その影響力を用いることができるのでしょうか?違います。勿論、地上でもある程度はできます。つまり、あなたが放つ影響力と光で完全なる道を進むことで、内側の神の王国のために働くのです。

 

天国はあなたの中にあります。それは、ローアセルフの壁が打ち破られるのを待っている完璧なスピリットです。あなたの中の神は、あなたの霊的および地上の生活の中において、あらゆる細部にまで現れます。人生において、既にどの位まで現実のものとなっていますか?神は、あなたの存在、行動、思考、感情にどのようにまだ浸透していませんか?例えば、このようなことを想像してみてください。もしあなたが、神の御心だと信じ執着している何かを手放してくださいと言われたら?それは単なる意見に過ぎないかもしれませんが、あなたはそれを手放して、それは神の御心ではないかもしれないと考えますか?それとも、むしろ自分がそうしたいからだと、逆に自分を納得させますか?

 

人生のどの部分でこのような態度をとっているか、正確に突き止めてみてください。そして、自分自身に正直に向き合ってください。あなたにとってより重要なこと、それは真実ですか?それとも何らかの理由で執着している信念ですか?もしあなたの信念が正しければ、神がそれを確かめてくれると信じていませんか?しかし、まずは手放す意欲がなければいけません。締め付けられる硬直感を感じる時、例え自分の意見が正しくても、天の王国が自分の中に現れるのを妨げてしまいます。逆に、自分の意見が間違っていると真実は浸透できません。思考の形が間違っていると、あなたのところに神の王国はやってきません。

 

「私たちに日ごとの糧を今日もお与えてください。」こちらもまた、何の意味も待たずに機械的に繰り返されることがよくあります。はっきりと考えを持っていないのに、日ごとの糧を得ることと神は無関係であると、人々は思い込んでいます。しかし、皆さんにお伝えしますが、神の祝福がなければ良いことはできません。神がいなければ、どんなに何度も努力しても、何も成功しないのです。霊的教育を受けた人は、自らの人生を振り返る時に、何が神の祝福を受けていて、何が神の祝福を受けていなかったのかをとても正確に見分けられます。「その違いはどのように感じるのだろうか?私は何処で何度も失敗しているのだろう?いつもどこで苦労しているのだろう?その本当の理由は何だろうか?何か間違ったことをしてしまったのだろうか?どんなふうに自分の態度が間違っているのだろうか?」と、それらを考えて、完全に神に身をゆだねてください。

 

地上の糧と霊的な糧の両方を手に入れるために、導かれる準備をしてください。霊的な糧はかなり軽視されています。あなたはそれが物質的な糧よりも重要でないと信じています。いいえ、皆さん、霊的な糧はより重要で、遥かに重要なのです。まず、霊的な栄養を受け取る努力が必要です。つまり欲しいと強く思ってください。それが、地上の全ての問題を解決するための入口です、地上の糧より、まず霊的な糧です。霊的な糧を切望する人は この道のある一定のレベルに到達しているのです。

 

「私たちの罪をお許しください。」祈りでは、私ひとりではなく「私たちをお許しください」と言っています。これは、あなたを傷つけた人も、完全には許せない相手も、全ての人間が含まれています。もしあなたが、率直に神が彼らを許してくれることを願うならば、あなたは自分の中にある、有害なエネルギーや暗い影響を引き寄せる暗い霊的な形から自由になります。この言葉が何を含んでいるか考えてみてください。つまり、神は、あなたやあなたが愛する人だけでなく、あなたがまだ否定的感情を抱く相手も許してくれる筈なのです。しばしば、あなたは自分の罪についてさえはっきり分かっていないことがあります。人間は、正当化されない誤り、不健全さ、誇張された罪悪感を生み出しがちです。

 

内側のプロセスは次のように作用します。あなたは自らの罪が正当化される事や、自分の足を引っ張り失望させられる事のない健全で前向きな悔い改める気持ちを感じる事を認めることに躊躇いを感じています。この健全な悔い改めと共に神に許しを求め、本当に変わりたいと思った時に、あなたは自分が許され、自由になったと感じ、肩の荷が下りたことに気付くでしょう。これは、変わろうとする意志、善意を貫こうとする意志が、誠実で辛抱強いものである時に起こるのです。

 

それでも、あなたはしばしば真の罪と向き合おうとはしないでしょう、ひとつには、実際の自分よりも良く見せたいという自惚れや、また他には、内面を変えるにはあまりにも大きな努力がいるからです。心の奥底では、一日にしては成らないこと、努力なしには成らないことを分かっています。霊的な核が合図を出し、自らの罪を認識するよう促しますが、ローアセルフがプライドと怠惰さで邪魔をし、真の罪ではないと思い込むことがあります。それはまるで、「ね、私は悔い改めているし、認めているけれど、実はここでは本当の罪を犯していないのですよ。」と言っているようなものです。当然ながら、これらは無意識的なプロセスであり、明らかにされなければいけないのです。これが偽りの罪悪感と本当の悔い改めの違いです。

 

霊的な道を歩む全ての人々の経験によれば、真の罪を認識した人は、自分を引きずり下ろす偽りの罪悪感の複合体を自動的に失うだけでなく、一瞬にして安堵と心穏やかな気持ちを得ます。何故なら、真実は常に自由をもたらすからです。自分の心を大きく開き、抵抗を克服しようとすることは苦闘です。そのため、人は本当の罪を認めることを恐れ、むしろ無意識のうちに、全くありえないような、あるいは、見たくない誤りを包み隠すような様々な非現実的な罪悪感を生み出します。なぜなら、一時の不完全さにおいてあるがままの自分を受け入れる準備がまだできていないからです。罪悪感の複合体は非現実的なものであり、決して自由にはつながりません。罪悪感は、悪循環を生みだし、重苦しさ、悲しみにつながります。一方、はじめは不快に感じるかもしれないけれども、真実は常に自由にしてくれます。

 

この点について、自分自身を調べてみてください。外見と妄想の全ての層を見抜いた人だけが、本当の罪悪感にたどり着きます。行動や感情的な反応によって、自分がどのように、ひとつか、又は複数の霊的法則に反しているのか分かるでしょう。そして、はじめて助けや変わる方法を求めることも含めて、神に許しを請うことができるのです。このようにして心が自由になった人だけが、人を完全に許すことができます。他者を許す準備が完全にできていなければ、許してもらうことはできません。そして、神の許しを経験し理解し感じた人は、自分自身をも許すことができるでしょう。そしてまた、これは次の一文へと繋がります。

 

「私たちも私たちに罪を犯す人を許します。」この祈りを口にしながらも、本当に許そうとは微塵も思っていない人がなんて多いことでしょう。ここにも、しばしば自己欺瞞が見受けられます。憎しみは去っても、恨みは残っています。そして、それから自分を自由にしなければ、霊的な体験ができるほど自由にはなれません。完全な許しを得るのはとても難しいことなのです。何故なら、あなたは相手に対する理解力が不足しているからです。ですから、この理解を求め、このことについてあなたに欠けている知見を求めてください。もし、あなたが本当にそれを望んでいて、よくあるように恨みに囚われなければ、これら全ては与えられるでしょう。 

 

あなた方人間は、自分たちだけではできないことを理解しようとしません。あなた方には 助けが必要です。だからこそ、この文章は祈りの一部なのです。もし、自分の意志だけでできるのであればわざわざ祈る必要はないからです。ある場所から別の場所に移動できますようにとは祈りませんね。健康な手足があれば、自分の意志で移動できます。しかし、本当に許すことができるようになる為には、助けが必要なのです。そして、自分に心から正直に向き合い、マスクを外した真の自己を知る為にも、助けが必要です。そして、自分のローアセルフに向き合い、内面の変化を果たす為にも助けが必要です。ですから、祈りましょう。

 

また、「私は本当に全ての人を心の底から許しているのだろうか?」という疑問と直面しなければなりません。ひとりでは未だ無理だとはっきり分かったら、助けを求めてもいいでしょう。そして、許さないということがあなたの重荷になり、あなたを不幸にし、あなたが望む光と自由を遮っていることを分かってください。許さないということは、あなたが許せない人を傷つけるよりも、はるかにあなた自身を傷つけます。

 

「私たちの誘惑の中でも導いてください。」最近、私たちの輪に加わった方々のためにも繰り返しお伝えします。通常言われるのは、「私たちを誘惑に導かないでください。」です。この言葉は誤解を生み、また危害を与える恐れがあります。神はあなたを誘惑に導きません。というより、誘惑に負けないように、神が導いてくださるように祈りましょうということです。そして、あなたが誘惑に逆らえるように、勝利するための強さとビジョンを持てるように、神が導いてくれることを祈ることです。もしこのことを思い描いているのなら「私たちを誘惑に導かないでください。」と言えますね。概念を混同しない限り、この言葉はそれほど重要ではありません。

 

さて、誘惑とはどういうことでしょうか?誘惑はあなたの中にあります。外からやってくるものではないのです。もし仮に外から来たとしても、あなたの中の何かがそれを受け入れようとしなければ、それに負けることはありません。例えば、殺人を犯すという誘惑にかられますか?絶対にあり得ません。しかし、自分の欠点が何であれ、それに屈しそうになることはあります。だからこそ、どのように誘惑されそうになるのかを理解することが大切です。あなたは、自分の欠点を知らなければいけません。自分の欠点をすべてリストアップして、忘れず覚えておきましょう。そして、自分では自らの欠点を克服できないので、再び強さと助けを求めてください。その概念の中にこそ、誘惑があるのです。

 

あなたの内に応答するものがなければ、どんな悪魔もサタンもあなたに手が届きません。神があなたからサタンを遠ざけるようにと祈るのは、あなたが間違いを犯しているからです。あなたの内に、ローアセルフの内に、完全なる自己を覆っている皮の中に、あなたを誘惑に導こうとする芽があるのです。闇の力はそれを明らかにし、引っ張り出す手段としての役割を果たし、あなたがそれと戦えるようにしているのです。もしその悪の芽が眠っていたら、それが現れる機会がなければ、あなたは一歩も完全な真の至福に近づくことはありません。

 

「私たちを悪からお救いください。」ここでも、同じ真理が当てはまります。悪魔はあなたの内にあります。もしそれが外にだけ存在するなら、あなたには触れられません。この考えを祈りに込めてください。誘惑に打ち勝ち、自分を悪から解放するために、キリストへお願いしましょう。神の助けと、約束されたキリストの助けによって、あなたにだけそれができます。彼の助けを借りてやってみましょう。ひとりでやろうとはしないでください。あなたは十分に強くありません。意志の強さと絶え間ない努力が必要です。あなたひとりの力だけでも、神やキリスト、どんな霊的な助けがあっても、自分を自由にしようとする意志がなければ不十分なのです。あなたの意志の強さと神の助けの両方が必要です。この問題には両方の面からアプローチしなければなりません。つまり、自分自身で取り組むこと、そして、繰り返し霊的な助けを求めるべきなのです。

 

「王国はあなたのものです。」神の王国はあなたの内にあります。それは神のものであり、他の誰のものでもありません。

 

「力」神の力だけが、真実を清め、送り届け、照らすのです。あなたに愛と理解の力を与えます。あなたを幸福へと導き、多くの人生で重荷となっていた全ての闇と不完全さからあなたを救い出し、あなたを連れてきます。

 

「栄光」は、神の御心に従うことによってのみ得られるものです。

 

あなたの人生に必要な全て、全てのものが含まれているこの最も美しい祈りについて、もっとたくさんのことをお伝えしたいのですが、今は時間がありません。いくつかのヒントを差し上げていますので、この言葉を聞いたり読んだりする皆さんが、静かな時間にこの言葉について考えて頂ければ幸いです。そうすれば、どのように人生において、個人的な事柄にこの言葉を適用させるかについての更なる考えや感情が得られるでしょう。解釈が明確になり、人生のある一定の分野ではどのように祈りの本質を既に適用しているか、または未だ適用できていないのか分かり、それぞれの言葉の意味が広がりを見せた時、それは生きた祈りになります。

 

このようにして生きていこうとすれば、みなさん、間違いなく幸せになりますし、やがて全ての問題は解決するでしょう。確かに、最初は問題がありますが、それは必要な薬なのです。人生に支配されるのではなく、だんだんと自分自身を支配し、結果として人生を支配するようになるでしょう。「私はどの程度幸せなのだろうか?」と問いかけてみてください。あなたは、自分が幸せである程度まで、他のひとりまたは数人を幸せにすることができると確信できるでしょう。また、この上昇の道を進み続ければ、自分が幸せでない分だけ、他者を幸せにできないことも分かります。幸せについて自己分析することは、自分がどれだけの幸せを与えることができるかを測ることができる簡単な基準や指標となります。もし他者を幸せにしたいという気持ちでいっぱいならば、神がその機会を与えてくれますし、それがあなたに真の幸せが訪れる方法なのです。

 

それでは、皆さんからのご質問をお受けします。

 

質問: 霊媒は自分の仕事で生計を立ててもいいのでしょうか?これについては、様々な意見があります。霊媒が他の人と同じように生計を立てなければならないことは明らかなのですが、もし他の方法で生計を立てた場合、彼女は非常に重要な仕事を遂行するための十分な時間を確保できないかもしれません。しかし、様々な霊的な情報源は、このようなことが起こるべきではないと主張します。ですので、ここには問題があると思います。このことについて何かご教示いただけますか?

 

回答:私がお話しなければならないことは、未だ訓練中の霊媒が、この仕事でも生計を立てられることを知っており、つまり、最初からこのことを考慮していたら、今よりも更にこの才能は無意味で悪用されることになります。善意に満ちた良識な人にとっても、その誘惑はあまりにも大きいのです。その為、神のスピリットはこの問題については非常に慎重であり、人間がこの仕事に取り組む際には、通常決して個人的利益にはつながらないと考えるのが良いでしょう。ただ、次のことを付け加えておきます。霊媒は、この仕事で生計を立てるまでに、少なくとも3年から5年は無料で奉仕すべきでしょう。訓練の間に、神の霊的世界は、本当にこの仕事にその人が適しているかどうかを観察する機会があります。もし適してなければ、いずれにしても神のスピリットは退いてしまうでしょう。結局のところ、お金は、人々が失敗する原因となる多くの障害物の一つに過ぎません。しかし、その人がその仕事を遂行できるようになれば、お金はもう障害にはならず、その人に影響を与えることもなく、その仕事を腐敗させることもありません。ですから、まず最低でも3年から5年は時間をかけるべきでしょう。

 

全てが順調に進み、霊的世界が退かない時には、外部から導きがあり、お金を受け取ることができる時が来たことを示す合図が出ます。それは、以前の段階で、霊媒が他者を助ける為に交信できるようになったことを示唆する導きがあった時と同じです。これにもその人の進捗状況に応じて時間がかかります。この訓練の過程では、様々な「ゴーサイン」が与えられます。もちろん、霊媒能力で生計を立てなくても十分生活していける人もいるでしょう。そうでなければ、神の世界は、訓練を受けている人が生活するのに十分な手段を持っているかどうかを確認するでしょう。

 

原則として、他の専門家と同じように、そして多くの場合それ以上に、時間、努力、エネルギーをその職業に費やしている霊媒が、交信することで生計を立てて報われるべきではないと主張することは、勿論全く不当なことです。同じように不当なのは、霊媒がお金を受け取ったからといって、神の精神との交信ではなくて、彼女は詐欺師に違いないとほのめかすことです。もしあなたが信じないための言い訳を探しているのなら、必ず何かしら見つけるでしょう。そして、もし霊媒がお金を受け取らなければ、別の何かを見つけるでしょう。結局のところ、お金をもらっていてもいなくても、霊媒は、神の霊的世界とは全く関係のないスピリットと接触することもあり得るのです。慢心、権力、虚栄心、高慢、称賛への渇望なども同様に大きな障害となります。このように、問題はそれほど単純ではありません。訓練期間中に真実が明らかになり、全てが順調に進めば、要求しなくても金銭的な補償が得られるようになるでしょう。

 

訓練期間は3年から5年ですが、交信の能力を成長させるという意味だけの期間ではなく、何よりも、私がお伝えしている趣旨での成長のための精神的な道を歩むことに集中するということを意味する期間なのです。これが本当ならば、外界の状況に関係なく、交信は常に神の保護下にあることになるでしょう。

 

もちろん、霊媒は、貧しくお金を払えない人への助けを拒むべきではありません。しかし、他のこと、まして重要ではないようなことにお金を使うことを惜しまない人が、霊媒の時間と奉仕を無料で提供してくれる筈だと期待するのは、その霊媒がまだ修行中でない限り、正しいことではありません。もし、霊媒が自己啓発の道を歩んでいる間であれば、物質的な私欲や虚栄心、その他の障害が立ちはだかることはないでしょう。もちろん、その霊媒をよく知らない限り、誰も外からその状況を評価することはできませんが、霊媒自身、そして神は真実を分かっています。そして、それこそが重要なことなのです。

 

このような訓練を遂行する霊媒は、医師や教師が大学に何年も通うのと同じような学習期間を経験することになります。医師としてきちんとした生計を立てることができる専門知識を身につけるまで、医師は研修中の病院等で患者を無報酬で治療します。そうして、学位を取得してお金を稼げるようになっても、誠実で勤勉な良い医者になれるのです。霊媒が本当に人を助ける能力があるのならば、そのための訓練を受けていない職業に時間とエネルギーを捧げるのは馬鹿げていますし、それでは役に立てないし、最も心得ている職業をすることの妨げることになります。優れた訓練を受けた医師が、副業として医学を追求するようなもので、医師として生計を立てることは考えておらず、そのため生活のために別の仕事をしなければならないようなものです。

 

ですので、霊媒の卵は、無報酬で長期間働くことを覚悟しなければなりません。神の世界は、援助と導きを与え、その間、その人は必要とするものを得ることができるでしょう。そして、その時が来たら、神の世界は、それまで必要であった職業をその霊媒師からゆっくりと取り除き、再び助けてくれでしょう。

 

そして、霊媒の助け、時間、努力を利用する人は、当然のことながら、霊媒が霊媒として生計を立てられるようにすることを望むべきです、みんながみんなそれぞれの手段に応じて生計を立てるように。これは彼らにとっても、あらゆる点で有益なことでしょう。このような理由から、霊媒に疑念を抱くのであれば、何かあなた自身の考えが間違っているのではないでしょうか。そしてあなたは自分自身を見つめ直し、結論を考え直すべきです。

 

もう一度に繰り返しますが、訓練期間は最低でも3年から5年、場合によってはそれ以上かかるでしょう。それは、霊媒師が自らの霊的成長を追求する強さと熱心さによります。時が熟した時、私がお伝えしたように、外部の出来事によって、さらなる「ゴーサイン」が与えられたことがはっきりするでしょう。分かりましたね、君?(はい、十分わかりました。)

 

質問:今日のレクチャーで、胸に何かが重くのしかかってきたのを感じたら、自分の中の何が悪いのかを自問するべきですとおっしゃいました。しかし、その重さは、例えば、深い悲しみから来るものでもあるのではないでしょうか?

 

回答: それはあり得ます。しかし、問題はどのような悲しみなのでしょうか?健全な悲しみは重荷に感じません。それどころか、元気づけ心をほぐします。そして、悲しみにもかかわらず、心の奥底では何かとても素晴らしいことが起こっていると言ってもいい程です。感情を言葉で表現することは殆ど不可能ですので、ただ私が意味する苦しみの締め付け感と魂をほぐす悲しみの感覚の違いを理解し、感じ取ってみてください。(あなたが言いたいことは、よく分かっています。)

 

皆さん、私の手、そして霊媒師の手を通して、神の祝福をお受けください。このエネルギーは、あなたの中に染み込み、強くし、向上させたいのです。神の祝福は、近くて遠い皆さん全てに届きます。神の中にあれ。

 

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Pathwork Guide Lecture No. 10

 

1996年度版

1957年8月19日

 男性への転生と女性への転生:そのリズムと原因

MALE AND FEMALE INCARNATIONS: THEIR RHYTHMS AND CAUSES

 

 

このレクチャーには、同性愛に関するひとつ以上のコメントがあります。同性愛に対するガイドの言葉は、これまでパスワークのコミュニティー内で論争の種となってきました。これらの言葉は、特に性的指向や、過去・現在における偏見の経験を考えると、痛みを引き起こす可能性があります。この話題についても、他の全ての話題についても同様に、ガイドは私たち自身の内なる権威を見つけるよう招いているということを、皆さんにリマインドしておきたいと思います。

(IPF評議員会 2022年9月)

 

 

神の名の下に、みなさんを歓迎します。親愛なる友人たちよ、皆さんに祝福を。

 

 概して、「神の王国は私たちの内にあり、同じように地獄もまた私たちの内にある」という教えの本当の意味を理解するのは難しいものです。皆さんは、これが“なんとなく”の雰囲気、つまり何か捉えどころのない、非現実的なものを指していると思っているのではないでしょうか。人間は、自分が目で見て触れることのできるものだけを実在すると考えます。そして、感情の状態は目で見ることも、触れることもできません。皆さんに、考えや感情が何かの“現れ”であると説明すれば、これらの「現れ」がそれぞれに対応した領域を形成することがいくぶんか理解しやすいかと思います。風景や環境、はたまた衣類など、なんであれ、その中間にあるグラデーションとハーモニーを奏で、あるいは不調和を生み出しています。しかし、これでは、これら全てがどのように内側に存在するかの説明になりませんね。人間は、自らの内側にその風景や領域のスペースはないと信じています。そして、それは言葉で説明するのと同じくらい難しいと信じています。しかしながら私は、皆さんを、霊的な状態のより深い洞察に導くチャレンジをしたいと思います。

 

 地上での時間と同じように、スピリットにおける時間という概念の現実は全く異なり、空間も同様です。上、下、右、左といった空間的次元は、地球という場所において理解可能な概念であり、霊的な次元には存在しません。人間は、肉体を脱ぎ捨てると、自らの内なる霊的な世界へと入って行きます。何故なら、宇宙とは実際、人間の内側に在るものだからです。これは事実です。

 

 例を挙げてお話しすれば、完全ではなくても、この概念を理解できるかもしれません。オペラグラスを反対側から覗き込んだらどうなるか、考えてみてください。全てがとても小さくなります。そうなると、目に見える小さな世界が、あなたが見た現実の理解になります。あなたはこんな疑問を投げてくるかもしれません。どうして、広大な宇宙が、ひとりひとりの人間の中に存在することができようかと。次のようにお答えします。あなたの住む地球は実際の現実ではなく、具象化・象徴化したものですらありません。地球という世界は、単なる「反映」であり、鏡の中のイメージであり、現実の投影でしかないのです。

 

 スピリットを宿す肉体は、分離を生み出します。肉体を去ることによってこの分離の壁が崩れた瞬間、全ての人間それぞれの内に存在する宇宙が統合されます。勿論これは、あなたが自分自身を、最早いかなる分離も存在しない領域に達するのに十分なだけ成長させていればの話です。ある存在が、自らを見出す領域の次元が低いほど、それが「今、ここ」であろうと「あの世」であろうと、分離はより根本的なものとなります。

 

 霊的な事柄を説明する人間の言葉には限界がある為に、たとえ話以上のものにはなり得ない、大雑把な概要だけしかお伝えすることができません。それでも、それは天国と地獄、そしてその間にある全てが内側に存在するという考えを瞑想してみる手助けになるでしょう。その教えが説明しているのは、皆さん人間が想像する感情的な状態だけではなく、何か抽象的なことでもありません。あなたの為にある全てが抽象的であるということは、スピリットとしては具体的なことであります。あなたの為にある全ては形を持たず、霊的には形を、より高い物質で構成された形があります。手で触れることのできる地球上の物質は、鏡に映った鏡像か、あるいはひとりひとりすべての人間の魂の内側に完全に存在する宇宙の反映にすぎないという理解において、あなたが最初に出会う困難は、私の言葉を瞑想することによって、おそらくある程度は乗り越えられるでしょう。

 

 このトピックについて質問はありますか?

 

質問:はい。このことに関連して、誰も見ることのできない「原子」についてお尋ねしたいと思います。原子は、人間の脳が認識できる最小の単位であると科学者たちは言います。つまりそれは、原子より小さいものはこの世に存在しないということです。人間が原子を分割できるなら、宇宙の秘密を見つけられるという宣言がありました。

 

回答:あなたが正しく理解されているように、原子を分割するということは、私が今ちょうど、十分なものではないにせよ、説明を試みてきた考えと関連します。つまり、皆さん方が物質として体験するものは、魂の内にある宇宙が映し出されたものにすぎないということです。原子力の学者は、そのことを皆さんよりも良く理解していることでしょう。何故なら、その桁違いの重要性を正確に知っているからです。原子が最小の単位であるということは、もちろん、人間の尺度において最小であるということを意味しています。あなたがたが理解できる最小のもの、ということです。けれども、スピリットにおいては、最小のものはまた、最大のものでもあります。あなたにとって、このことを理解するのは難しいでしょう。しかし、このことは繋がっているということをあなたは直感的に理解したのです。原子を分割することは宇宙の秘密を解き明かすことであると誰かが言う時、その意味はこのことです。このことすべてが、扉を幾分か開けてくれます。少しだけ、ベールをめくり上げてくれます。

 

 これまで人々は、教会の教義の影響で、全ては外側にあると信じてきました。地獄は下に、天国は上に。天国とは自らの内にあると言う聖書の言葉を読む時、人間は、それが「なんとなくそんな感じである」というように受け取ります。ここに矛盾が起こります。実際に、原子力物理学者はこの矛盾に光を当て、どちらも同じことを言っているということを明らかにします。つまり、感情的な状態とは、実際、人間の内側にある霊的な領域だということです。

 

 ある発達の段階を超えると、全ての霊的存在は、浄化のステージへと到達します。そこは、神聖なる流れに委ね、自らをその中に溶け込ませることが可能な場所です。更にそこでは、この液状になった人間の寿命、つまり生命を再構成することができます。それによって、その存在はもう一度、形態と形状を持った存在になるのです。発達の高いレベルにまで未到達の存在には、知覚できない非常に微細な実体ではありますが。

 

 計り知れない程の喜びの感覚に包まれる時、誰もが、この「ワンネス」へと溶け込んでいく至福の感覚のかすかな残滓を経験することができます。愛する人とひとつになる時だけでなく、自然を通して、音楽を通して、瞑想を通して、あるいは単に神の存在を感じる時など、それがどんな形であろうと、魂が高揚し神に近づく時に経験する全ての事柄において、きっとあなたも、自らの内にそこに溶け込みたいという大きなロンギングがあるのを感じることができるでしょう。その時あなたは、自分の肉体が自らを制限していることを実感し、その制限を破って偉大なる流れに委ね、そこに飛び込みたいと願います。このような表現でこのことを考えたことは恐らくないでしょう。けれどもこの先、時折、この感覚を経験したときっと確認することでしょう。

 

 魂が浄化されていなければいない程、自らに委ねることを激しく求めているにも関わらず、人はそれを恐れます。欠点や落ち度、弱さだけでなく、不安や不健全な傾向もここに含まれます。魂が霊的であればある程、それが委ねを阻止することは少なくなるでしょう。人間世界にはこのことを分かっている哲学も少数存在しています。このような洞察を通して、これらの哲学は、この状態が人類の最終目的地であるという結論に達しています。しかし、それは真実ではありません。融合し溶け込みはしても、その人格が、つまり「私」という意識が失われることはないのです。これまで何度も繰り返し同じことを言いましたが、それらの実在は、その形なき生命を凝縮させ、純粋な「being(在る)」という状態から「doing(する)」という状態へと移っていきます。「doing(する)」という状態において、それは完全で調和のとれた形とならなければなりません。そして、神が創造主(行為者)であるが故に、このプロセスもまた神自身の中で起こります。神の有効成分が凝縮を繰り返し創造し、もっとも純粋でもっとも純粋で完璧な形となっていくのです。このようにして神の成分だけが持ちこたえ、結果として、それもまた自らの内に溶け込んでいきます。このような概念は、皆さん人間にとって、理解することは極めて難しいでしょう。けれども、私の言葉が気づきの光をもたらすことを望みます。そして、おそらくその言葉が、かつて、私の大事な友人のひとりに尋ねられたけれども、その時には十分に答えられなかった質問の答えになるのではないかと思います。私の言っている意味がわかりますか?

 

反応:わかります。インドの哲学では、私たちが理解している限り、それがはっきりと表現されています。

 

回答:はい、私は同時に、人間の理解にもともと内在する矛盾についても説明しています。さらに同時に、二元論と一元論というトピックにも触れています。「在る(being)」という状態、溶け込むという状態の中で神を経験したことのある人は、それが唯一かつ最後の真実であると考えます。けれども、神が形として、創造主として現れたのを経験した人々は、これが究極の真実であると信じます。これが矛盾の発端です。私が申し上げたいのは、どちらの経験も等しく真実だということです。

 

神聖なる側面はひとつひとつそれぞれが「在るという状態」を含んでいなければならないが、常に存在する訳ではない。時には溶けていることもあり得ます。これは勝手に起こるわけではなく、全てのより高次の存在と同じように、法則的なリズムに従って起こります。神のこれらの側面は、皆さんが人格と呼んでいるものです。

 

質問:それは、プラーナを取り入れ、プラーナを吐き出すことを意味していますか? 私たちがあるリズムで呼吸することと関係していますか?

 

回答:その通りです。そして、皆さん方のリズムは、宇宙のリズムに繋がっています。

 

質問:だからこそ、プラーナと呼吸というのはもっとも重要な生命の働きなのですね?

 

回答:そうです。これらの言葉を瞑想すれば、より多くの洞察を得られるでしょう。

 

そして、親愛なる皆さん、一般的に重要だと思われる質問がまだあるようですので、質疑応答を続けたいと思います。

 

質問:私はあなたのご意見を非常に大事にしているのですが、インドの教えの中で強く勧められている、氷山と雫、あるいは氷山と水について瞑想することは、西洋人にとって好ましいことだと思われますか? あるいは、西洋人には向いていないと思われますか?

 

回答:一般化はできません。完全に個人によります。そのような瞑想は、ある人にとっては重要な瞑想になり得るでしょう。けれども、一定のレベルに達していない人にそのような瞑想を勧めたり、あるいはそのタイプではない人に勧めたりした場合、その瞑想は、本当の意味で助けにはなりません。ここでも、従うべきは直感とインスピレーションです。

 

質問:その場合、緩める練習が必要になる可能性がありますか?

 

回答:その通りです。それは常に、その人の問題が何であるかによります。自分の問題が何なのかを考えずに、決まりきったパターンで瞑想することは絶対に避けてください。何よりも優先されるのは、内面のブロック、誤り、そして弱さが何処にあるかということではないですか?人生の根本的な葛藤は、常にそこから生じています。

 

質問:物質に強く根付いている、ホロスコープに土のサインを多く持つ人は、水や火のサインを多く持つ人達よりも、この種の瞑想に対する耐性があります。風、水、火が多いと、この瞑想は合わない。この考え方は正しいですか?

 

回答:はい。その通りです。

 

質問:質問をさせて頂きます。一般的な概念や教えでは、男性は女性に、女性は男性に生まれ変わるとされています。この点について、明確に理解できるよう説明して頂けますか?

 

答え:根本的に、すべての存在は男性か女性として、殆どの転生で、それぞれの基本性質に従って生まれます。しかしながら、別の性としての人生を体験する必要があるケースもあります。説明します。「堕落」(神からの分離)をする前には、全存在は一体化しており、自らの内に能動と受動、すなわち男性性と女性性の側面の両方を包含していました。最終的には統合が起こり、分離した半分同士が一緒になり、ひとつの存在を形作ることは、誰もがご存知でしょう。これが起こるのは、生まれ変わる必要性を乗り越えた時、大抵の場合かなり後になりますが、男性的要素と女性的要素がひとつになった時のみです。堕落とは神からの分離であり、そして同時に二つに分かれ、更にどんどん分裂し分離して行く状態のことです。動物界、植物界、そして鉱物の世界についてはこれで説明がつきます。分裂がどんどん進み、さらに小さな破片となっていきます。

 

 しかしこれは、補足的な説明にすぎません。あなたの質問に話を戻しましょう。統合された存在を想像してみてください。その内側で男性性と女性性が統合された、ボールの形をした存在です。でも、どうかこれを文字通りに受け取り過ぎないでください。このように説明する他なく、もし別の説明をしようとすれば、皆さん方はこの概念の理解に欠けてしまうだろうと思われるので、このような表現をしているのです。そのボールの一つの面はポジティブな面、男性性で、もう一つの面はネガティブな面、女性性です。ここでお伝えしたいのは、「ネガティブ」という言葉を価値判断のための言葉として受けとらないで欲しいということです。男性の要素とは創造者であり、ポジティブ(肯定)であり、活動的・能動的なのです。神が、能動的に創造するという目的を持って何かしらの形に凝縮するならば、男性性が作用しているということです。女性的、つまり受動的な性質は、それ自身を溶け込ませ、ゆっくりと、そして継続的にはぐくみ、成長させていきます。その性質は、自然の中に母性として存在します。母性は、一度で何かを創造することはしませんが、全てのものに継続的に作用し、その存在の内側にただ静かに在ります。

 

全ての創造的な顕現の内にある果てしなき多様性の中に、どちらの性質も見られます。つまり、男性性の極と女性性の極の双方を包含する統合された対の存在の中にも見ることができるということです。神はそのどちらをも完璧に、そしてそれぞれが本質的であるよう創造しました。ゆえに、男性性が女性的な役割を引き受けるというのは正しくありません。逆も然りです。

 

もう一度、ボールを思い出してください。一つの面はポジティブ、つまり男性性、もう一つの面はネガティブ、女性性です。それらが統合に向かう時、双方は完全な調和の下で作用します。分裂が起こった時、ちょうど真ん中で割れることは非常に稀でした。ふたつに分かれることは神からの分離の結果であり、それは神の完全なる秩序に属していない混沌とした出来事でした。このようにして、分離は整然と秩序だった形で起こることはなかったのです。したがって、偶発的に、男性的で在るべきものが女性性に、女性的で在るべきものが男性性に振り分けられることが起こり得るのです。

 

スピリットを神へと戻す発達のプロセスで、その分離の割合を同じくらいにしなければなりません:男性性に属しているのに女性的な面に振り分けられてしまったものは、逆の側、すなわち男性として転生する必要があります。分裂の状態が均等でなければない程、その存在が、本来のバランスを成り立たせるために男性として転生しなければならない確率は高くなるでしょう。もしもあなたが、自分が男性として、あるいは女性として何度転生したかを知っていたら、あなたがどのように分離したのかを知ることができるでしょう。繰り返します。全ての存在は、根本的に男性性か女性性そのいずれかを表しており、どちらかが彼あるいは彼女という存在を支配しています。健やかで調和のとれた女性性が男性に変わるのは非常に不自然なことです。なぜなら、そのどちらもが神聖なものであり、それぞれがそれぞれで完璧だからです。

 

質問:全ての人が、女性である/男性である意味を経験する必要はないということですか?

 

回答:はい、必ずしも必要ではありません。もし分離がちょうど真ん中で起こったなら、逆の性で転生する必要ではありません。

 

質問:ちょうど真ん中で分離する存在はいるのですか?

 

回答:殆どいません。非常に稀です。けれども、申し上げたように、分離の角度がそう広くないケース、真ん中からのズレが比較的小さいケース、また足りない部分を埋め合わせる必要があまりないケースの分離はあります。男性と女性を交互に転生する目的は、経験を積むことではありません。もしもこのことについて瞑想すれば、スピリットとしての経験、完全性へと向かう霊的な発達は、男性であるか女性であるかには全く関係ないことが分かるでしょう。そして直感的に、自分が本質的に男性であるか女性であるかを理解するでしょう。発達を通して、あなたは男性として、あるいは女性としての完全性へと導かれるのです。

 

本来の性的アイデンティティではない性を持って生まれてきた為に、それを補完する転生を経験せねばならない人達は、瞑想を通して気づくことができます。もちろん、経験を積む必要はありますが、だからといって完璧な男性が女性に、完璧な女性が男性になる必要はありません。それを信じるのは、人間の誤りです。神がその男性性と女性性においてどこまでも完璧であるのと同じように、それぞれが、それぞれを交互に体験する必要もなく、それぞれが自分本来の姿と働きを保ちながら調和のとれた形で創造を続け、ゆえに自分以外の全ての存在と共にいます。調和と体験は、神聖なる完全性をもう一度手にするための発達の道を歩きながら蓄積され、実現されるべきです。

 

質問:転生のサイクル全体を通して、女性性と男性性の間の分離は続きますか?男女両性の融合とは、スピリットの世界でのみ起こり得るものですか?

 

回答:融合はスピリットの世界で起こるものです。

 

質問:それが起こるのは、ある存在がこれ以上転生する必要がなくなった時だけですか?

 

回答:その時のみです。転生が必要とされる限り、スピリチュアルに溶け合う形での融合が起こることはありません。

 

質問:非常にオカルト的な質問をしても良いでしょうか?長い間私は、ずっとあることが気になっています。

 

回答:どうぞ。

 

質問:分離は、わし座で行われたという「マカマの拒絶」と関係がありますか?

 

回答:同時性はあります。手がかりは常に、偉大なる天地創造の中に示されています。

 

質問:私たちの生きている現実は、真の現実の反映に過ぎないとあなたは説明されました。私はそれが理解できません。たとえば木に触れると、木の樹皮をとてもリアルに感じます。今ひとつ私には、仰っていることが理解できません。まだ、そこに行けていません。

 

回答:このセッションが終わった後、友人達と話してみてください。それが、あなたがこのことの理解に近づくのを助けてくれるでしょう。このことを明確にするのは、これを理解するのと同じように難しいのです。もし、今日理解できなくても何も問題はありません。後になり、一年か二年、あるいは五年後かもしれません、突然この問題に光が差すでしょう。きっとあなたは。この意味する所を「ああ、そういうことか」と感覚的に理解すると思います。誰も、それ以上先には進めません。そうすれば、この言葉は全く違った形であなたに影響を及ぼすでしょう。

 

 

確かに、あなたが触れるものはリアルなものです。あるいは、あなたにはリアルに見えます。鏡に手を触れれば、それもまたリアルです。あなたは鏡をそこに感じます。鏡に映し出された生物は暖かく、その血管に血が流れていることをあなたは知らないと仮定してみましょう。あなたは、事実上どのようにしてその生物が触覚を通して経験されているかを知らないのです。こうしてあなたは、鏡に映ったイメージをリアルな人間と間違えてしまいます。これと同じようなふたつの現実の関係性について、想像してみてください。あなたが現実の中で意識していないものは、触れるとどんな感じか、どのように目に映り、どのように聞こえるかをあなたは知りません。あなたにとって基本的な基準は、触覚と聴覚、あるいは視覚です。なぜならあなたには比較の基準がなく、また、高度に霊的な知覚にも欠けているからです。

 

質問:ある人が女性として転生したにも関わらず自分のことを男性的だと感じる時、その転生に背くことは罪でしょうか? あるいはこのことは、もしかしたらあなたが先ほど説明されたことにあたりますか?

 

回答:罪であるとは言いません。感情的なレベルのみであったとしても、自分の女性性に抵抗している女性は、道を逸れています。その抵抗には神に対する抵抗、創造に対する抵抗、そして彼女自身の運命に対する抵抗が含まれていて、これは常に何かしら不健全なものが魂の中にあるという兆候です。いつか癒されねばならない場所です。現世、つまり今回の転生で与えられた人生を完全に受け入れ、イエスと言うこと、そして今回の人生の目的が何であるにせよそれを果たすことによってのみ、人間は完全な幸福を見出すことができます。最初のステップは、自分の使命を見出すこと、やるべき仕事を知ることです。これは、この癒しの道で、非常にたやすく発見できます。彼/彼女の運命に従わない人は、常に内面的に不幸せで、常に何かの問題に悩まされ、成功したり何か良い行いをしたりしている時ですら、満たされていないと感じます。不幸なことに、人は自らの不幸な状態から正しい結論を引き出しません。それが実は、自らのエッセンスからのメッセージであるにもかかわらず。彼らは自分の不幸をありとあらゆる外的な状況のせいにし、それが自分自身のもっとも深い部分からのメッセージであるという可能性以外のありとあらゆる種類の可能性について憶測を立てます。ある人が不幸せである時、彼女/彼は、これまでの所、自分は自分の運命をその最大限の可能性まで生きてはいないことを知るべきです。問題がある時、単に外側に現れている現象だけを排除しようとすることに意味はありません。問題の根を掘り出すべきです。どの程度自分が自らの使命を全うできているか。そして、この点で未だ何処が欠けているのか知る必要があります。これこそが不幸に対する、そして絶え間なく続く自分への不満に対する唯一の治療薬なのです。

 

質問:いまちょうど講義されていた分離についてバランスが取れておらず、ゆえに自分の根本的な性質の逆を生きなければならない時、その状態を発生させることなく、あるいはそれについてなんとか対処する能力を持ち、自分の適切な男性性もしくは女性性を発達させる為に、どのように自分の使命を果たせば良いのでしょうか?自分の女性性を発達させることができない、あるいはそれに多大な困難を伴う、男性性の強い女性を例にとってお話し頂けたらと思います。

 

答え:良い質問ですが、まずはあなたの誤解を正そうと思います。人々がいかなる状況にあっても誤ることなく自らを見つけるという仮説は正しくありません。そんなことは決してありません。分離が起こったのは、遥か遠い昔の「堕罪」の瞬間に、自分自身がそう決めたからです。日常の意識はもうそれを覚えてはいませんが、スピリットは覚えています。勿論、表層意識にその記憶を上げることはしませんが。

 

あなたの質問に関する限り、私はこう言います。あなたは知っていると思います。全ての男性の中に女性性の要素があり、全ての女性の内に男性的要素があるということは、心理学でもこれを認めています。同じことは占星術の中にすら見られます。ここにおられる友人が、それを証言してくれるでしょう。占星術でいう女性的な宮に男性が生まれることはあり得ますが、その人は完全に健全な男性ですし、同じことが、男性的とされる宮に生まれた女性にも言えます。もしもある男性が完全に健全で統合されているならば、つまりは、自らの発達を最大限に実現させることによって運命を成就させているならば、彼の内側にある女性的な傾向が彼の男性というアイデンティティが完全に展開されることを阻むことは決してありません。同じことが、完全に健全で統合された女性にとっても言えます。それどころか、異性的な傾向はさらに遠くなり、人格が完全に開き切るでしょう。たとえば、女性の中の男性的な要素が非常に厄介で問題である時、その女性は完全にスピリチュアルな意味で、生きてはいません。けれども、その女性が自分自身をスピリチュアルに発達させると、その同じ要素がサポート的な働きとなり、ポジティブで良い性質に変化することもあるのです。これが起これば起こる程に、それぞれの魂の流れと傾向が、より調和のとれた形で融合し、人格全体がより高いレベルの統合へと到達します。

 ここでもやはり、全てはその存在の自由意志にかかっています。

 

人間の視点から見た時に、強みであれ弱みであれ、ポジティブな要素であれネガティブな要素であれ、それは本人が今生に持ってきたもの、あるいは既に身につけていたものではありません。決定的なものではありますが、大事なのは、本人がそれを使って何をするかです。非常に集中的に自らの霊的な道を歩む時には、いかに妨害的な要素と思えるものでも、内面的なものであれ外面的なものであれ、それが強みになります。霊的な道に足を踏み入れなければ、強みであったものですら弱みや問題に変わってしまうでしょう。この場合、女性の中にある男性的な要素は逆に働き、大きな内面の葛藤を引き起こし、その結果不調和が作り出されます。全てはその人がどれだけ自分自身の発達を切実に願っているかによります。お分かりになりますか?

 

質問:完全にではありませんが。でも、それについて考えてみようと思います。今ここで私たちが体験しているのは、現在進行形の両極性であると私は信じています。

 

回答:そうです。けれども、そこにはそれ以上のものがあります。

 

質問:相互補完的なプロセス、対極にあるふたつのものをひとつにするプロセスですか?

 

回答:その通りです。プロセスにおいて、それぞれの要素それ自体は中立的であることはお分かりだと思います。関係性の中に置かれることで、それは好ましい、あるいはそうではない形で作用してしまう訳です。こちらかあちらか、有害か有益か、いずれにもなり得るのです。男性的な要素が、ある女性の邪魔になっている時、その女性の発達は浄化の段階、つまり克服し、癒し、統合する段階にあるということです。その変化は、この道を歩むという彼女の決意を通してのみ成されます。彼女には「何もしない」という選択肢も、浄化の道を進むという選択肢も、両方があるのです。真ん中ではなく分裂したのは、偶然ではなかったのです。それは、その人の自由意志に基づいて起こった分裂であり、あるいは、もっと正確に言うならば、その時点で最も心地良く感じる方向に向かう選択によって起こったものです。従って、神へと還る発達は常に、その人が元々創り出した困難を克服することで成立します。

 

質問:このことは、重要な仕事に就いている女性についても当てはまりますか?

 

回答:はい。

 

質問:可能性として、転生で何かしらの技術的な間違いは起こり得るということですか?

 

回答:いいえ、違います。それはありません。

 

質問:良い意味で完全に女性らしいのだけれども男性として生きている人たちに会ったことがあります。私の質問は、ホモセクシュアルとは関係がありません。肉体的でなく、霊的な意味だけに興味があります。

 

回答:今私たちが扱っているトピックとはまったく関係のないカルマの結果として、そのようなケースが起こることがあります。もし関係があるとしても、直接的な関係ではありません。ここでその詳細に触れることはしませんが、転生の初期の段階で、自らの性に対する攻撃的な振る舞いを通してカルマを積み重ねた場合、女性は男性として転生し、男性は女性として転生します。それに耐えなければなりません。

 

質問:私が例に挙げた方達は、苦しんでいる様子は全くなく、むしろ幸せそうでした。

 

回答:まず、カルマは必ずしも苦しみと繋がっている訳ではありません。良いカルマもあります。カルマとは単に原因と結果を意味します。けれども、このケースの場合はそうではありません。あなたがそこに痛みや問題を見出さないとしても、信じてください、この種の人生というのはそう簡単なものではありません。

 

質問:では、両性具有者の場合どうなりますか?女性寄りのタイプであるか男性寄りのタイプであるか、何処で区別できますか?私が信じている科学的な記録によると、過去にひとりだけ、半分男性で半分女性という完璧な両性具有者がいたとされています。おそらくその割合も完全なものではなかったと思いますが。

 

回答:あなたは、大事な鍵となるとても興味深い質問をしてくださいました。科学は既に、有益になり得る情報を多く発見しています。もしも科学が「結果」と「創造」に対する基本的な問いとを結びつけて考えているのであれば。

 

なぜそのような痛みに満ちた転生が起こるのか、その理由はカルマです。その正確な根源は、現時点で私たちがお話しできる領域を超えています。しかしながら、ゆくゆくあなたは、実際の例や何かしらの説明を通じて、どのような状況がこのような種類の転生を招くのか、より深い理解を得ることでしょう。しかし、何にせよ、間違いが起こることはあり得ません。

 

質問:どんな種類の創造においても絶対的に間違いはありませんか? 100パーセント絶対でしょうか?

 

回答:絶対です。

 

別の発言:いかなる災害や惨事の理由も同じで、起こるべくして起こっただけです。

 

回答:その通りです。

 

多くのケースにおいて、創造に対する人間の見解は無数にあり、互いに矛盾し合い、対立している見解のそれぞれに真実の種が含まれます。このことは、あるのは男性的存在と女性的存在のみが存在し、入れ替わりはないという想定に対して、転生が男性と女性として交互に起こるのかどうかの疑問にも関連します。同じことが、人間は、実際には神を実体のないものとして、あるいは何かを神の一部として経験するのに反して、何故か「人」としての神を崇拝する傾向があることにも当てはめられます。何度でもお伝えしたいのですが、ことふたつの異なる意見に関して言うなら、一見矛盾するふたつの立場の根底には必ずひとつの真実の核があります。男性となり女性となる転生に関しても、どちらも正しいということにあなたは気づくでしょう。友よ、このことを瞑想し、学び認識してきたことのひとつひとつを比較し熟慮するならば、加えて、この真実を暗示するいくつもの類似点について考えてみれば、それはこうあるべきであり、これ以外ではあり得ないという理解に達することでしょう。言葉は常にそうですが、十分ではありません。この概念をあなたがたの言語に落とし込むことは簡単なことではありません。それは難しいのです。私が今お話ししていることを真に理解する為には、言葉のそのままの意味に固執せず、より広い意味で言葉を受け取ること、そしてあなたの知識を感覚と結びつけることが何よりも重要です。そうすることで、言葉ではカバーしきれない洞察が、あなたの中で育って行きます。

 

質問:これらの事柄について書かれることは、これまでほぼありませんでした。ガイダンスの助けを得て、私たちは自分で認識していかねばなりません。そうですよね?

 

回答:人類のさまざまな領域、又その他の領域にも、多くの人に広く知られている哲学や、今ここでお伝えしている内容とつながるヒントや類似点があります。知識と感覚をひとつにした時にのみ、あなたはインスピレーションに溢れた文学や哲学を読むことによって多くの洞察を得ることができるのです。

 

質問:このテーマに関する最後の質問をしたいと思います。ある存在の継続的で霊的な成長は、その肉体が男性であるか女性であるかには関係がないという結論に私は達しました。男性性の基本的本質は、女性として転生してもなお存続します。一時的に女性になったとしても、その人の根本が男性であるという事実は変わりません。これが本質的な真実であると私は信じています。

 

答え:そうですね、けれどもそれは、その人がその人生をどう生きるのか、その与えられた条件をどう使うのかによります。それによって、その人の人生はより楽で容易いものに、より美しいものにもなり得ますし、あるいはより険しく困難に満ちたものにもなるでしょう。

 

質問:瞑想には、霊的に働くものと、もうひとつ、より感情的に働くものと、2種類ある訳ではありませんよね?例えば、思考することなく「じっと動かず静かにして、自分が神であることを知る」ということを瞑想するとは、ただ永遠の神の本質が自らの魂に流れ込むのを許す、ということで合っていますか?

 

回答:まさにその通りです。もう一度、前にお話ししたことと似た内容を申し上げます。瞑想という形をとってすら、私たちは、男性性と女性性の本質をそこに見出します。そのうちひとつは知的に活発で、思考と深く関わっており、すなわち男性性です。もうひとつは、感情的で流動的な、すなわち女性性です。そのどちらも重要です。発達のある段階においてはどちらかが強まり、次の段階ではもう片方が強まり、やがて双方のバランスが取れ融合が起こるまで繰り返されます。それは、瞑想の中ででも起こり得ます。もっとも深められるべき瞑想とは、あなたがより難しいと感じる種類の瞑想であることを忘れないでください。何故ならそれが、究極の融合を実現するために欠けている性質であり、それが深められるべき性質であることを示しているからです。

 

質問:ある東洋の教えによると、人は過去世にもう一度転生することも可能であると耳にしたのですが、これは正しいですか?

 

回答:いいえ。正しくありません。

 

質問:人間の中の形而上学的な性質は神からのギフトです。何故ならそれを通してその人は神に近づくことができるからです。その旅路が熱心に、そして着実に辿られるならばの話ですが。そのような性質を持つよう選ばれた人々は、転生の初期にそれを得るのでしょうか?あるいは試練としてその強みを与えられるのでしょうか?もしもこの才能を使わなければ、次の人生では、この同じ才能はもう与えられませんか?

 

回答:ふたつの質問が含まれているので、順にお答えします。まずは、質問の最初の部分についてですが、どちらのケースも起こり得ます。霊的繋がりの為にワークし、それを手にしようと必死で頑張ったならば、その努力は次の人生で結実します。このことは、占星術のチャートにも見ることができるのにあなたは気づくでしょう。この才能は、ある人の中で容易に花開く一方で、この才能を得るために非常に苦労する人もいます。ワークを重ね、必死に頑張ったならば、次の人生においては、恐らく全てが何の苦もなく花開いてゆきます。

 

また、形而上学的な傾向が試練として使われるケースもあります。形而上学的な現実の体験が、成長を加速度的に促す目的で提供されます。これは次のような方法で起こります。人生において、必ずしも霊性の為のギフトとは繋がりのない功績をあげた人がスピリットの世界に入ると、その功績は法に則って正しく算定されます。全ての転生は注意深く計画され、ある段階を超えた魂は、自らも次の転生計画を決めることに参加しますが、次の人生をどうするかが検討される時、その過去世で成し遂げた功績の結果を次の人生でどう享受するかを決めるのは、その魂自身に任されます。霊性の開花という恩恵を自らの努力によって得た訳ではないケースもありますが、その場合ですら、過去世を基準として、来世においても同じように霊的な体験が起きることを強く願います。その切望がポジティブな結果をもたらし、霊性を体験する能力を創造する時、霊的なコンタクトを開く為に苦労することなく霊性を経験することができます。地上における人生での一時の安らぎは、霊的なレベルにおける幸福と比べればほとんど重要でないということを既に理解した状態で、ある人は健康を願い、またある人は繁栄を願い、また別の人はより早く霊的に成長するチャンスを望むのです。

 

このようにして、次の転生の計画を決めた存在たちはこう言うでしょう。「あなたの努力なくしてスピリットが成長していくことはありません。けれども、あなたの成し遂げた功績を基に、次の人生であなたがこの方向に進むために、あなた自身が自由意志を使って自分に差し出されたチャンスを掴む練習ができるようなサポートをします。その決定をするのはあなた自身であり、苦しみに打ち勝つことができるのもあなた自身です。そうすることで、霊的な解放という至福にあなたは到達するのです」そう、これは、最初のケースとは違うものです。

 

では次に質問の後半部分にまいりましょう。勿論そうです。この道(Path)を進むチャンスを得た人がこのチャンスを活かそうとしない場合、霊的な経験への扉はかなり長い間閉ざされると思ってください。これは私が説明する必要もないことです。このことを考えてみれば、そうなる以外道はないことは理解できるでしょう。その人は、何らかの理由で、この素晴らしいゴールへと到達する可能性を活かそうとしないのです。それは、怠惰、慰めに甘えること、虚栄心、あるいは恥など、開花させることなど不可能だとその人に感じさせることであれば、どんなことであれ理由になり得ます。そうなると、どんなに上手に自分を騙していても、個人的な落ち度の責任は負わねばなりません。その落ち度は、とりわけそれが霊的な道(Path)へと続く扉を閉ざすかんぬきとなっている場合には克服する必要があります。当然の成り行きです。そのような人は、霊性の開花の為に、より必死で努力せねばなりません。落ち度を克服したとしても、難しいということが分かるだけで、そして、後回しにしたところで難しさが軽減することはないのです。ただ、それにかかる時間が長くなるだけのことです。スピリットが経験すべき体験を抑えることは、結局のところできないのです。

 

親愛なる皆さん、そんなことは聞きたくないと思っているのは分かっています。既に何度も何度も必死で取り組み、克服し続けてきている人が、そんなことを聞きたい筈がありません。しかし、これが事実なのです。そして、確認の意味で申し上げますが、これは不当なことではありません。人間が手に入れることのできる最大かつ最高の幸せ、つまり自身が発達し進化するということは、最大限に努力し手に入れるものだからです。そして、もしも導きに助けられているにもかかわらず、未だ自身の最善を尽くしていないのであれば、それに従って原因と結果の法則が作用してなるべき結果になるのです。

 

質問:女性性と男性性の原理に関してですが、歴史もまた、女性性の時代、男性性の時代であり得るというのは真実ですか?

 

回答:真実です。様々な時代に、その影響が明らかに見て取れます。この点に関しては、ある霊的な存在が特に強く動いています。更に、このサイクルの変遷を司っているのは霊的法則です。この周期は、人類の進化のために必要なものだからです。

 

質問:例えば、20世紀は女性的な要素がより前面に出てきた世紀である、というのは正しいですか?

 

回答:そうです。まさにその通りです。平等化の実現のために必要な動きとしても作用しています。

 

質問:今日のレクチャーは、とても私の心の琴線に触れています。そして、今日のレクチャーでは、チャネラーを通してあなたの伝えたいことを表現するのに困難を感じておられるように見えました。それは何故ですか?

 

回答:私のお話しした言葉の意味に、難しい所はありません。チャネラーを通してある程度までは表現できています。あなたは恐らく、それを実際よりも問題と捉えたのでしょうね。私は伝えることができています。勿論、チャネラーを通すのがそう容易ではない難しい概念を取り扱うこともあります。これら全ては彼女(エヴァ)には奇妙に聞こえているでしょうし、それによって邪魔が入るのは何があっても避けたいところです。

 

質問:死後、スピリットがあちらの領域に再び入るとき、痛みは伴うのですか?

 

回答:いいえ。

 

質問:必ずしも伴うというわけではないという意味ですか?

 

回答:いいえ。痛みが伴うことは一切ありません。あなたの質問されたようなことは決してあり得ないことを証明する例がたくさんあります。

 

質問:痛みがないのは、その人が人生において成し遂げた功績に対する神の恩寵ですか?

 

回答:それについては、原因と結果、又は、神の恩寵であると言えます。両方でもあり得ますし、その人が生きてきた功績がこのような形で結実したとも言えます。あるいは、ある独自の人生の送り方を通して自ら創造した原因の結果であると言ってもいいでしょう。

 

質問:罪を犯した者が心の底から後悔し、償い、良い人間になろうとしたとします。その場合にも、その人は、罪を犯したことの当然の帰結としての結果を受け入れなければなりませんか?

 

答え:いいえ。その人が真に悔い改めることができれば、それは成長であり、このような形で成長することで、罪を引き起こすこととなった欠点を克服すると、その罪は消え去ります。どんなカルマであれ消すことができます。そしてこのことは、あなたが人生において引き起こした何らかのことに対しても当てはまります。

 

では、親愛なるみなさん。神の祝福をみなさんお一人おひとりに贈りながら、そろそろ私はこの場を離れるとしましょう。神の愛があなたに強さを与え、あなたを開き、そしてあなたを霊的な成長へと導きます。そしてあなたは、これまで以上に幸せな神の子となるでしょう。

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